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2013年12月12日 (木)

戦国史80(室町Ⅳ20): 上杉謙信 越後統一

 越後は代々上杉一族が守護であったが、1507年(永正4)守護代の長尾為景が越後守護・上杉房能(フサヨシ)に反乱しこれを殺めて、その養子・上杉定実(サダザネ)を守護の座に就け、これを操って実質的に越後を手中に収めた。
 しかし、1436年12月(天文5)、為景も病気引退・死亡すると、嫡男晴景は「内乱平定」の綸旨(リンジ)(天皇の意思伝達文書)を拝領。直ちに、父が押込めていた上杉定実を再び守護の座に据えるという政治的無定見振りをさらけ出すなど、晴景の力量不足から混乱が生じた。そこで守護上杉定実の仲立ちによって、兄晴景と対立した弟の景虎(若干19歳)が晴景の養子になるという形で、1548年12月(天文17)に景虎(のち謙信)が守護代を継ぎ、長尾家当主として春日山城に入り、越後の実権を掌握した。 
F80 当時の越後は府内長尾氏を中軸にして、上田長尾、古志長尾、三条長尾が連携すれば、細長い越後国に太い筋金が入る。景虎は、古志、三条を栃尾時代に掌握しており、残すところは上田長尾だけであった。
 上田長尾は関東との関門を扼(エキ)し、中部の上条上杉と結託したり、関東勢を引入れるなど、府内長尾の行動を制約してきた。しかし、上田長尾を押さえれば越後統一の枢軸が完成し、関東街道の幹線確保もできる。
 かくて、関東管領が越後へ攻め込んできた道を逆に越後から関東へ攻め下るようになり、更には信州中島へ転戦する幹線道路ができた。こうして、景虎は越後統一を図って、関東経略に乗り出すようになり、戦国大名として歩み始めた。この時、1552年(天文21)景虎23歳の時だった。

 天才的軍略家と云われた景虎は、北条家によって関東を追われて越後へ亡命した上杉憲政を伴って、1561年(永禄4)関東に攻め入り、一時は小田原城を包囲して窮地に追い込んだ。この帰途、鶴岡八幡宮で憲政から上杉の名跡関東管領の職を受け、名を上杉政虎(のち謙信)と改めた。

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