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2013年12月10日 (火)

争乱の戦国史79(室町Ⅳ19): 伊達氏 戦国大名へ

 1537-38年(天文6-7)、越後では守護復帰の上杉定美には跡継ぎが無く、伊達氏に嫁いだ女子の血筋にあたる子息、即ち伊達稙宗(タネムネ)の子・実元(サネモト)を養子に迎える話が浮上した。ところが上杉家の阿賀北衆の中でも、伊達氏の懇意の中条氏は稙宗の意向を受け積極的だったが、慎重派の他の北衆との間で紛争が生じ、遂に伊達氏が阿賀地方に出兵する騒ぎとなったのである。
F79 ところが、実元が軍団を率いて越後に行くのは伊達氏本国の支配を動揺させるとして、稙宗嫡子・晴宗がこれに反対し、1542年(天文11)父・稙宗を捕え幽閉してしまった。この親子相克が天文の乱と呼ばれる南奥州諸大名を巻き込んだ争乱へと発展した。稙宗方は相馬・田村・葦名・二階堂・懸田各氏や実子の大崎義信・葛西晴胤がつき、晴宗方には伊達氏家臣の多くや岳父・岩城重隆・留守氏が味方した。他氏との広範な縁組が、逆に争乱の拡大を誘った。
 晴宗方についた伊達家家臣には稙宗時代急速に進んだ棟役(家の賦課)、段銭(田地の賦課)の徴収強化体制即ち戦国大名化への反発が強かったと云われる。

 この乱で勝利した晴宗家督を相続し、稙宗は隠居させ、1548年(天文17)居城を西山城から米沢城に移した。そして、従来の安堵状を破棄して、家臣団全員の所領に対して新たに晴宗の安堵状を一斉に下した。その上で、新しく時代に対応した軍役台帳を作成した。これは家臣団の知行地を完全に掌握し、家臣団編成と序列を整備して、権力基盤の安定化に成功して、戦国大名へと飛躍したのである。
 その後、乱後に権力を強めた中野氏の扱いに関し、子・輝元と対立を深め、1564年(永禄7)杉目城(福島城)に隠居し、子・輝元に家督を譲るが、生涯を通して、岩城、国分、二階堂、佐竹各家に自分の子の養子縁組や入嫁させて、伊達家の戦国大名としての地位を不動のものにした

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