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2013年11月

2013年11月30日 (土)

争乱の戦国史75(室町Ⅳ15)信玄、家督奪取そして信濃制圧

 武田信虎甲斐を統一1532年)し、更に1540年(天文9)、隣国信濃の佐久郡に攻め入り制圧した。この戦には嫡子・晴信(のち信玄)も20歳で参戦、武名を挙げた。晴信は1535年(天文5)元服し、将軍・義晴の偏諱を賜り、晴信と名乗り、従五位下に叙せられ、大善大夫信濃守に任ぜられていた。
 ところが、1541年6月(天文10)佐久平から帰国の父・信虎は10日後、突如駿河の今川義元の元に出かけた。駿河には娘が嫁しており、顔を見たさの忍びの下駿で保養のためかとも言われている。しかし、この時信玄は好機到来とばかり、甲斐と駿河の国境を閉ざし、父を駿河に追放し、武田家の家督を奪ってしまったのである。この行動の動機には諸説あり、信虎の無理な遠征や強引な内政に反発し、又弟・信繫を偏愛し、家督を弟に譲ろうとした加羅とも言われる。
F75 かくして実権を得た信玄は、この後信濃制圧に心血を注ぐ。先ず1542年6月(天文11)、諏訪一族と呼応して諏訪頼重の上原城と桑原城を攻略、頼重を切腹させ、高遠、伊奈、塩尻、佐久に抜ける要地上原城を奪取する。
 1545年(天文14)、信玄は伊奈攻略に向かう。相手は信濃守護・小笠原長時と、北信濃の豪族・村上義清だ。翌年には佐久方面に進出。が、小笠原一族の内山城攻撃では惨敗し、幹部を失う。信濃側の反武田勢力が総決起したためで、信虎以来の最大の危機に陥る。
 しかし、一旦甲府に帰還後、塩尻峠に進軍、小笠原長時戦線を急襲し数時間の激闘で勝利した。信玄は更に深志、岡田、相原を抜いて村上義清の戸石城に向かい1550年(天文19)再び敗北、これを「戸石崩れ」という。しかし、信濃攻略着手ご、10年目にして、1551年(天文20)秋、小笠原長時を越後に追放1553年(天文22)には村上義清も越後に追放し、信玄は12年に亘る戦で、ほぼ信濃を制圧したのである。そしていよいよ上杉謙信との運命の対決・川中島の合戦が始まる

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2013年11月29日 (金)

各地、初冠雪を記録

 最高気温が10℃を割る真冬並みの気温となって、各地の初冠雪のニュースが相次いだ。福岡では3番目に早い記録だそうで、とにかく寒い。夏は猛暑、冬は厳寒、一体この地球どうなってんだろうねと言うのが、偽らざる気持ち。
 その寒さを知らぬげに、晩秋に咲く花々が元気よく咲いている。が、きっと花も吃驚してるだろうなと思う。今日はその中で、晩秋に満開となる皇帝ダリア
Photo コウテイダリヤ(皇帝ダリヤ)。別名コダチダリヤ(木立ダリヤ)、帝王ダリヤとも呼ぶ。樹高4mにもなる故の名前。当地民家の庭に高々と咲いている家が多い。余り高いと鑑賞にも都合悪く、8月初旬に剪定すれば低い花が観賞できる由。メキシコ、中米原産。日本には江戸時代に渡来。故に天竺牡丹とも言う。
Photo_2 下接写の花。キク科で日が短くなれば花芽が付く。故に街灯や門灯は花付を悪くする薄紫一重は野生種と言われるが、園芸種では八重咲もある由。又花色も赤、白、桃色もあるようである。花期は11月中旬~12月中旬。花の構成はキク科共通。

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2013年11月28日 (木)

争乱の戦国史74(室町Ⅳ14): 斎藤道三の国盗り

 斎藤道三は、父の代から守護にとって代わらんとの動きを見せていた。父は山城の地侍・松浪基宗の子として生まれ、1504年(永正元)京都・妙覚寺で僧となり法蓮坊と称したが、その後還俗して油商人となって松波庄五郎を称した。
 そして行商で訪れた美濃で、西村新左衛門尉を名乗り美濃守護・土岐の旗下で名族の長井氏に仕えて頭角を現し、遂に長井氏を名乗るまでになっていた。
 1527年(大永7)、新佐衛門尉は長井氏本宗家当主・長弘と共に、守護土岐氏の弟・頼芸(ヨリナリ)に接近し、守護・土岐政頼を追放して、頼芸を擁立した。この功績で新佐衛門尉は頼芸の後ろ盾として重用され、守護の実権を奪うまでになっていた。
F74 しかし、1533年(天文2)には長弘、新佐衛門尉が相次いで死去し、父の後を継いだ長井規秀(ノリヒデ)(長井新九郎利政と称したとする本もある)、後の斎藤道三が、この時から歴史の舞台に登場したのである。
 その後1537年(天文6)頃までに、長井規秀(道三)は長井家本宗家を滅ぼし、乗っ取て、翌1538年(天文7)には守護代・斎藤家の名跡を継いで斎藤利政を名乗る等矢継ぎ早にその地位を上昇させた。(斎藤道三画像(常在寺蔵))

 1542年(天文11)には関係が悪化していた守護・土岐頼芸尾張に追放し、遂に美濃一国の支配者となり、稲葉山城に拠ったのである。追放された土岐頼芸は尾張の織田信秀(信長の父)や越前の朝倉氏らの協力を得て、美濃に進攻し、数年間にわたって道三と争った。しかし、1547年(天文16)には越前へ敗走し、道三は完全に美濃一国を掌握したのである。
 こうして、北条早雲と並び、戦国時代の初期における下剋上の典型のような戦国大名と称された斎藤道三の登場である。

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2013年11月27日 (水)

秘密保護法案、衆院通過したが・・・

 唖然とする強行採決と言われている。この法自体の必要性の疑念、運用如何で言論の自由を阻害される恐れ、国民の知る権利を阻害する可能性など多々の反対論を、数の力で押し切ったとの印象が強烈である。何故安倍政権がこのようにこの法制定を急いでいるのかもよく判らない。国民の意見を殆ど度外しているという感じが強い。
 そして、このやり方で今後も自民党政権は国民の意志を度外視して、自民党の思うがままの政治をやるのでないかと危惧される。国民の安心安全が消えて行かない様祈る
 そんな中、今日から寒さも一段と強まってきたが、今日も寒風の中に咲く花。
Photo フサゲイトウ(房鶏頭)。別名ウモウケイトウ羽毛鶏頭)。以前はトサカケイトウ(扁平)やヤリゲイトウ槍状)が多かったが、最近このフサゲイトウが流行っているようだ。これは道端の空き地の花壇に植わっていたもの。原産地は熱帯アジアで、日本には中国経由で奈良時代に入ってきた。
Photo_2 同上の。花と思われている部分は茎の上部が変形してトサカ状になったもので、花序の形態によって上記の3つと久留米鶏頭(球状)の4つに分かれる。これは写真のように羽毛状で花序が細かく分かれ紐状となり、炎の様になっている。花色は赤、橙、黄、桃、白などがある。

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2013年11月26日 (火)

争乱の戦国史73(室町Ⅳ13): 毛利氏の支配体制確立

 毛利元就は1540年(天文9)、尼子軍に本拠地吉田郡山城を攻められたが、陶晴賢を大将とする大内氏援軍に救われ、尼子軍を退けた。翌年、撤退した尼子方は尼子経久84歳で急死し、その後を早世した父に代わり孫の晴久継ぐという危機を迎えた。機に乗じて大内方は攻勢に出て、毛利氏も加わり翌1542年(天文11)、出雲進攻を開始し、翌年(1543年)には晴久を出雲月山富田城に攻めたが、容易に攻め落とせず、吉川家はじめとする大内方の国人の寝返りもあって大内軍は惨敗毛利軍も大きな被害を受けた。

 大内氏と尼子氏との争いが続く中、元就謀略を駆使し、勢力の拡大、安定化につとめた。まず国内の国人との関係で苦労した元就は、1544年(天文19)、三男・孝景を安芸沿岸部の有力国人竹原小早川氏へ養子として送り込み、同族の沼田小早川氏をも継承する。又、次男元春には元就の妻・妙玖の実家である安芸内陸部の有力国人・吉川家を継がせた。吉川家は当主興経から家臣団が離反したので、元就子息を推戴したのである。

 1550年(天文19)、こうして小早川・吉川の両家が毛利宗家を支える「毛利両川」体制が作られ、中国地方進出の基礎を整え、同時に毛利氏家臣団の内部の変革も迫られていた。
 1550年7月、元就は譜代の家臣・井上一族を粛清し家中の引き締めをはかった。井上氏が毛利氏と同じ国人領主であったため、主家を軽んじ、経済力に任せての専横が目立った。それで30余名を誅伐し、見せしめとしたものである。
F73 この後、元就は家臣238名に起請文を提出させて毛利への忠誠を誓わせ、奉行制を敷いて支配体制を固めた。
 更に1557年(弘治3)軍勢狼藉の禁止を誓約する2種類の起請文が書かれrた。一つは毛利家中の連署起請文で、242名の家臣が連署形式をを採って誓約した。もう一つ安芸国衆一揆契状で、元就以下、隆景(家督を継いだ子息)・吉川元春・小早川隆景、元就の女婿・宍戸隆家、平賀・天野。熊谷氏12名が傘連判で連署し「衆中」の権威を契約遵守の根拠とする典型的な一揆契状である。は弘治3年の「傘連判状」(毛利博物館蔵)

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2013年11月25日 (月)

庭木のブーゲンビリア

 今頃、花の庭木は山茶花や薔薇位で、庭が淋しいのを埋めるがの如く、ブーゲンビリアの大木が花を一杯つけている
 当地福岡では、民家の庭にこの紫色の種の大木を庭木として植えている家が珍しくない。今頃の園芸種とは異なり、昔からある種で、耐寒性もあるからであろうが、庭木と出来るのは、当地から瀬戸内地方が北限であろう。
Photo ブーゲンビリア(Bougainvillea)。和名はイカダカズラ(筏葛)。つる性ゆえに筏組に使われた故の名か。中南米の熱帯雨林が原産地。フランスの探検家ブーゲンヴィルによって1768年発見された故の名で、比較的新しい花だ。明るく日当たりの良い場所を好み、風通しの悪い所は適さない。
Photo_2 の接写。色づいた花ビラに見えるのは花を取り巻く苞葉であり、3枚又は6枚あり、その中に見える小さな白いのが花で、三つある。包葉の色は白、赤、マゼンタ、紫、橙、黄と富んでいる。比較的小さい花だから赤系のがいい。園芸種には八重もあるという。

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2013年11月24日 (日)

野に咲いている菊

1 1と2ノギク(野菊)。この菊は、今頃道端に咲いており、所謂野菊と称する野生の菊と思っていた。が、菊には野生種はないという。菊は中国で作出されて、日本に伝来したもので、栽培種が野生化しているものである。即ち野菊とは小型の菊の総称なのだ。。
1_2 日本には菊に似た花が沢山あり、ヨメナの別種を野菊と言うとも、逆に野菊の一つがヨメナとも言われる。キク科の花は皆、外側に舌状花が並び、内側に黄色の管状花が密生している。これは花径が3cm位のもの。
Photo 3と4コギク(小菊)。これも野菊の一種で、花径が1.5cm程度の小さな花を付けるものを総称して小菊と称しているようだ。これも今頃、草叢の中に野生化して咲いているものだが、小菊は盆栽用に開発されたいろんな種類の総称らしい
Photo_2 花も勿論写真の如く他の菊と基本的には同じである。因みにキク科に属するコスモスやヒマワリなども花の構成は全く同じであり、菊と思われているヨメナなどとの区別も素人にはつかないものだと知った次第である。

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2013年11月23日 (土)

争乱の戦国史72(室町Ⅳ12): 今川義元の登場

 今川家は足利一族の吉良家の分家に当る。吉良、今川両家は足利本家が断絶した時、将軍継承の権利が発生したほどの名門。南北朝の争乱での戦功で、遠江、駿河2ヶ国の守護となった。応仁の乱頃、当主義忠が死去すると、その嫡子・龍王丸派と義忠の従兄弟・小鹿範満派が家督を巡って対立。叔父にあたる北条早雲の仲裁で、竜王丸改め今川氏親が駿河守護に就任した。
 名将・早雲の多大な影響を受けた氏親は、土地と農民を直接支配する検地を行ったほか、54ヶ条からなる分国法「今川仮名目録」を制定するなど為政者としても非凡な面を見せた。また、産業振興面でも手腕を発揮。特に金山開発では坑道を掘り進み金鉱石を採取する工法を進め、金産出量を飛躍的に増やした
72 氏親の死後、後を継いだのは14歳の嫡男・氏輝だったが、支配体制を強化しつつも1636年(天文5)若くして急死した。この後継を巡り、花倉の乱と呼ばれる争いが発生する。玄広恵深と栴岳承芳の出家した子供達によって争われ、勝利した承芳が還俗し家督を継ぎ、義元と名乗った。この時活躍した名僧・太原雪斎の補佐を受けて、父・氏親の進めた国力強化と領地拡大に取り組んだ。
 先ず東方に於いて、氏親の時代に争った武田家とは1537年(天文6)に同盟を結んだ。武田家と衝突してきた北条家との関係が悪化し、北条氏綱の軍勢が駿河へ攻め込んできた。河東(富士川以東)を占領した北条軍と武田・今川軍との戦いは断続的に続き、河東一乱と呼ばれる大きな合戦が二度にわたり起こった。
 しかし、1545年(天文14)、北条方に反攻し、ひとまず鎮静化した今川氏は、氏親時代に進めていた東三河への侵攻を再開した。
 この頃、三河を統一した松平家は衰退し、代って尾張の織田信秀が進出していた。そこで、義元は松平家を取り込み、織田家を度々撃退し、三河を支配下に置くことに成功した。義元は氏親の定めた分国法33条に21条を追加して、幕府が一部荘園に守護が干渉するのを禁じた「守護不入」の否定も含まれ、今川家の完全な戦国大名化の証拠とされている。

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2013年11月22日 (金)

神の領域(出生)を侵すか

 今朝の新聞(毎日)には、出産のコントロールに関する記事が二つある。一つは一面トップ記事で、妊婦の血液胎児の疾患の有無を判定する「新型出生前診断」陽性反応だったうち、その後の羊水検査などで、陽性が確定した54人の内53人が中絶を選んだというもの。陽性であればダウン症の確率が80%あるという。悩んだ末の選択故にその心情はよく判るが、何故か100%是認できない気分が残るのである。
 あと一つ「卵子凍結保存」。卵子の老化による不妊を避けるために、若い時の卵子を保存し、晩婚であっても正常な出産ができるように備えたいというもの。但し、保存卵子による出産率は高くなく、日本生殖医学会は、無秩序な拡大に歯止めをかけることを目指すという。こちらは制約をしようとの方針なのでいいとは思うものの、医術の進歩は今やまさに「神の領域」である「人の誕生」を制御出来るようになったが、個人個人の問題だからと言って、個人の判断で「生」を否定できるものなのか倫理以前の分野にまで手を入れていいのか疑問に思う。
 さて重い話の後だが、今日は今年は成りの少ない石榴(ザクロ)。
Photo ザクロ(石榴)。当地では庭木として植えている家が多い。鑑賞用と食用を兼ねての昔からの木だろう。ザクロ属にはザクロとソコトラザクロ(イエメンのソコトラ島産)の2種だけ(品種は多い)と言う。日本には3世紀頃渡来。若木から実をつけるまで10年を要すとか。
Photo_2 ザクロの実。初夏に咲いた花が実るのは10-11月。果実は花托(花柄の先、花が着く部分)の発達したものという。熟すと外皮が裂けて、果肉の粒が現れる。今年は実が付く頃旱魃であったため、実がなるのが遅れ小さく(4-5cm)、色も悪い

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2013年11月21日 (木)

争乱の戦国史71(室町Ⅳ11): 三好長慶の京都制圧

 細川高国は12代将軍・足利義晴を担ぎ、10代将軍足利義稙(ヨシタネ)、管領細川澄元(高国の兄)らを京都から駆逐して、政権を握ったが安定しなかった
 やがて澄元の子・細川晴元が四国で力を蓄え、将軍義晴の弟で義稙の養子でもある足利義維(ヨシツナ)(堺公方)を擁して堺に渡り勢力を示した。この勢いに押されて、高国政権が衰退して行くなか、1532年(天文元)には義維、晴元を支えていた重臣の三好元長が同族の三好政長討たれている。その背後には晴元の意志があったとも言われ、結果的に義維と晴元の仲が悪化し、細川晴元義維を追放して、義晴、義輝(13代将軍)と結び、1536年(天文5)、入京し幕府実権を掌握した。
 更に1543年(天文12)、高国の養子である細川氏綱が挙兵すると、1546年(天文15)には晴元方の義晴、義輝が氏綱方につき晴元政権を脅かした。この様に諸勢力が離合集散を繰り返し、京都周辺の動乱は一向に収まらなかった
71jpg このような状況の中で、失脚していた三好元長の子・三好長慶が頭角を現す。父が殺されたとき、三好家の領国の四国に逃げ延びた長慶は、長じて晴元政権に参加1542年(天文11)には晴元と対立した木沢長政を討つなど数々の戦いで功績をあげ、重臣となっていた。
 1548年(天文17)、長慶は晴元方から、劣勢に立たされていた細川氏綱方へと寝返る。そして1549年(天文18)江口の戦いで、かって父(三好元長)を失脚させた三好政長を破り仇を討つと共に、晴元政権を崩壊させたのである。
 その後、細川晴元に勝利した細川氏綱管領の地位に就くが、実権はあくまでも家臣である三好長慶のもとに在った。こうして、明応の変以来続いてきた細川一族中心の政権に代り、長慶を中心とする三好政権が成立したのである。
 長慶は将軍義輝を傀儡として幕府の実権を掌握し、四国から近畿にかけての広大な地域を支配した。そして三好義賢(ヨシカタ)、安宅冬康、十河一存(カズマサ)ら優秀な弟達の支えが三好政権を強大なものにしたのである。

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2013年11月20日 (水)

秋咲向日葵が咲いている

 秋に咲くヒマワリを通称「秋咲ヒマワリ」と云うそうだ。写真の花は小学校の学童教育用の花壇の隅に咲いていたもの。当初、ヒマワリが秋に咲くとは知らなかったので、別種かと思い、種々調べたが、ヒマワリの花に似た花は多いが、ヒマワリの別種は無いようだ
Photo ヒマワリ(向日葵)。播種期を遅らせ、8月頃蒔いた種が今頃草丈1m弱に伸び、花を10-11月に亘ってつける様だ。ネットで調べると、秋咲を植えた向日葵園は全国的に沢山あるのに驚いた。花の少ない時期に楽しんで貰おうとする自治体が多いのだ。これを知らなかったのは私だけかも。
Photo_2 接写の。キク科の特徴で花は頭上花序で、沢山の花の集まり。外輪は黄色の花びらの舌状花、その中央部花弁のない筒状花の集まりなのである。尚、ヒマワリは放射能の除洗効果があるとの説が流布したが、今は否定されているようだ。食用や搾油、小動物の餌等の多用途がある。

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2013年11月19日 (火)

争乱の戦国史70(室町Ⅳ10): 天文法華の乱

 16世紀に入ると、本願寺による門徒動員が行われ、北陸各地に一向一揆が蜂起した。更に、享禄年間(1528-1532)には畿内の政治に係わり、門徒の軍事動員が行われる。義澄の子・義晴を将軍として擁立する細川高国と、阿波に落ちた将軍・義稙の養子・義維を推戴して1527年(大永7)堺に上陸した細川晴元(澄元の子)の両政権が対立していた。しかし、1531年(享禄4)、高国は晴元政権を支える阿波国人・三好元長のため、敗れて自刃し、晴元政権が誕生。だが、次第に晴元と元長が対立し、元長と組んだ河内守護・畠山義宜が晴元配下の木沢長政を攻める事件が起きた。この時、晴元は門徒出陣を本願寺に要請、大量の門徒出陣で、畠山義宜は殺され三好元長も晴元軍に攻められ自殺した。
 この後、奈良方面では細川晴元が中心となって近江守護六角氏や宗教的に対立する山門(延暦寺)・法華宗などが共同で一向一揆と戦い、1533年(天文元)、山科本願寺を焼き討ちする。門徒側も山科を焼き討ちした諸勢力を法敵とした。
F70 一向一揆に対抗する勢力では、京都の町人を中心とする法華宗徒の軍団が異彩を放った。宗派内部の分派も盛んだったが、応仁の乱までに十指に余る法華宗寺院が建立され1466年(文正元)、法華宗寺院は宗派内抗争を止め、応仁の乱中に勢力を強めた。1533年(天文元)には21の本山が立ち並び、一向一揆に対峙する信徒と僧侶の武装集団「法華衆」が成立した。これが法華一揆だ。
 京都の法華一揆の武装集団は一向一揆と衝突、細川晴元と共同して山科本願寺焼き討ち、つづく摂津・河内・和泉での一向一揆との戦いで活躍した。結果、京都の防衛は殆ど法華一揆に委ねられ、法華寺院の地位が著しく高まった。
 1533年(天文2)、石山本願寺が反撃に出て晴元は淡路に逃亡。将軍も細川氏がいない京都では、殆ど法華一揆が支配するところとなった。晴元が再び堺に上陸した時も、法華一揆が中核だった。
 しかし、1536年(天文5)山門が法華宗攻撃を開始し、7月遂に山門・六角軍が京都に攻め込み、9月入京した晴元のもとで、法華の寺院再興・布教はすべて禁止となった。1541年(天文10)、後奈良天皇の命で法華寺院は帰京が許され、復興する。

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2013年11月18日 (月)

神無月の菊花展

 今神無月だが、7・5・3のお詣りは多く、大概の神社で菊花展がある。これは宗像大社でのもの。
Photo_2 1懸崖。写真の如く「総理大臣賞」受賞作品。一本の茎からこれだけ多くに枝分けし、3点も揃えられたご苦労がしのばれる、見事な小菊の懸崖だった。

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 2管物(クダモノ)。大菊のこの種を「管物」と称する。見事な3段仕立である。花弁の太さにより、太管、間管、細管、針管に分かれるという。これは細管だろうか?

Photo_4

 3一文字。菊の御紋に似ている故、「御紋章菊」とも言う。大菊では唯一一重の菊で、花弁が大きいのが特徴で、最近出始めためずらしい品種である。

Photo_5

 4厚物大菊を代表する昔からの菊。花弁が外に垂れるのを走り弁といい、この花型を厚走りと言うそうだ。
尚、真ん中の赤色のは、花弁の中側が赤で、外が白いこの種は「巴錦」の名がある。

 Photo_6

 5小菊つながり小菊の茎が8本つながっている1本の茎の節々から根を出させたものか、夫々別の8本をつなげたものか、誠に不思議な造りの枝立である。

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2013年11月16日 (土)

争乱の戦国史69(室町Ⅳ9): 撰銭と東西通貨圏

 撰銭とは、通貨価値の低い銭貨の受け取り拒否や割増要求をしたり、価値の高い精銭での支払い要求の事である。何故、こんな問題が起きるかと言えば、中世日本では、朝廷も幕府も独自の通貨を発行せず、大量の中国戦(宋銭と明銭)が輸入され流通していたが、その中国銭に信用不安が発生したからである。
 中国銭は本来、中国が国家として、その価値を保証した貨幣であったが、15世紀半ば、明王朝が国家的支払を銭から銀に転換したため、銭貨の国家的補償を失い、それが日本にも波及したからである。

 これに対し、大内氏などは1485年(文明17)、撰銭令を発し、特定の悪戦以外の原則的撰銭の禁止と、明銭を2~3割混ぜて使うことを規定したもので、永楽銭など明銭の信用低下に対応したものと言われる。撰銭令は1496年(明応5)、1518年(永正15)にも出されたが、現状は増える一方で、売買当事者間での合意の上での撰銭でも両者処罰を命じた。大内氏は遠隔地交易をおこなう上からも、精銭が必要であった。段銭(税)を領主・大名に納める地下人の世界では、「通用銭」「商売銭」事足りており、それで領主にも納めようとするが、領主は困った。
F69 毛利氏領国では、石見銀山の飛躍的産出量増加により、銀貨幣が流通し始め、遠隔地取引で銀使用が可能になった。結果、毛利氏は撰銭令は不要であった。石見銀山付近図
 ところで、他の地域では、永楽末年頃から銭遣いから、米遣いへの転換が起きる。1560~1570年には畿内・西国の殆どの取引は、銭貨から米に移る
 一方、東北の北条氏の領国などでは、基準通貨は永楽銭であった。銭が市場の交換財であると共に、賦課基準としての政治的性格が強かったのである。当時、永楽銭は他の精銭の2倍の評価だったという。
 このように東西では銭貨の流通・評価に関しては、東海・関東・甲信越の東国は永楽銭が基準通貨圏であり、西国と異なる
 ところが、中国に端を発した銅銭の信用不安は、中国貿易を通じて、西国・畿内にも影響し、永楽銭の信用は不安定となる。そして、金山の多い東国では金銀の多い西国では銀が主力通貨と言う通貨体制が、近世の通貨体制へ引き継がれれるのである。

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2013年11月15日 (金)

菊の季節

 朝寒く、昼は晴れ上がり気温も上昇し気持ちの良い秋晴れとなる。これが菊が咲く頃の代表的パターンだ。と、書いてこの言い方はちょっと変だと気が付いた。この様な気候になると、菊が花盛りとなる。と言うべきだろう。気候の変化に対応して植物は花を付ける。即ち、霜が降りはじめるちょっと前の季節である。この頃、野生の菊が雑草に混じり元気に咲いている。これら野生の菊は強く結構長期渡って咲き続ける。
 その中で、今日はコンギク。ノコンギクと言う野生種があって、それの改良栽培品種がコンギクだが、そのコンギクが今は野生化して、都市近辺の道端に咲いている
Photo コンギク(紺菊)。キク科のシオン属。日本原産ノコンギクの園芸種ながら、今はこれが野生化している。ヨメナに似ているが、枝分かれが多く、頭状花を付ける。開花期9-11月。花茎3cm位
Photo_2 下同上の。濃青紫色の舌状花(花弁)と黄色の筒状花(中央部)から成る。この写真でも筒状花はお分かり頂けるだろう。花色は青紫色以外に白色もある。又葉に斑(フ)入りのも、園芸種では開発されているようだ。

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2013年11月14日 (木)

争乱の戦国史68(室町Ⅳ8): 自治都市堺と商都博多

 1469年(文明元)以降、兵庫の港は応仁の乱で焼かれ、又大内氏が瀬戸内を勢力下に置いたため、東軍・細川氏は日明貿易(勘合貿易)の拠点を堺に移した。1523年(大永3)の寧波(ニンポー)の乱で、細川氏が日明貿易から撤退するまで、堺商人は細川氏や室町幕府に貿易船(遣明船)ごと出資し、莫大な富を得ていた。
 (寧波の乱1523年、大内・細川両氏の派遣した勘合船が、寧波で勘合の真偽を巡って、明の役人を巻き込んで紛争を起こした。そのため勘合貿易が一時中絶し、大内氏が日明貿易を独占した)。
 また、細川氏と対立する大内氏が支配する瀬戸内海を避けて、土佐沖を通過する南海航路を開発し、琉球貿易東南アジアとの貿易でも活躍した。

 堺はこれ以前から、一定の税を納めることで室町幕府から事実上の自治が認められ、豪商の中から選ばれた36人の会合衆による合議制で運営される自治都市であった。海と環濠に囲まれた町は、出入りに木戸口を設け、浪人を傭兵し、自衛していた。16世紀半ばに堺を訪れた外国人宣教師はイタリアのベニスのように執政官による自治が行われていると評したといわれ、「まるで堺は東洋のベニスだ」と言われたという。
 後に、織田信長は堺に矢銭(軍資金)を要求し、会合衆は一度は拒否したが、今井宗久、津田宗及などの講和派の働きで、堺は信長に屈服、支配下に置かれる。
F68_2  この頃、堺以外にも、大内氏の日明貿易の拠点となった博多のほか、明や琉球などの海外との貿易拠点として栄えた港町があった。
 遣明船派遣の権利を独占していた大内義隆が、家臣の陶晴賢の謀反に逢って自死し、遣明船貿易は終った。しかし、日明間の貿易は中国の海商(所謂倭寇勢力)に導かれ、むしろ日本の商船は増えたという。この後期倭寇とも呼ばれる海商たちは中国沿岸部で交易すると共に、ジャワ、シャム、琉球、九州、朝鮮との間を往復する交易ネットワークを広げた。
 これら海外貿易中心は博多であり、神谷、奥堂、川上らの豪商が活躍。寄港地も平戸・五島・長崎・坊津などが使われた。

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2013年11月13日 (水)

小春日和に蝶が舞う

 早朝の冷え込みは12月上旬並みといわれるように、福岡で10℃前後。相当寒い。しかし、昼間ともなれば、当地では20℃前後。かなり暖かくて、小春日和という言葉がピッタリ。季節で陰暦10月、丁度今頃のことを小春という。対して俳句の小春日又は小春日和は初冬(12月まで)の晴れた日のことである。

 俳句によく詠われる、「秋の蝶」は弱々しい蝶である。しかしそれとは全く違う蝶の話。ここ、2、3日朝は寒いが、日溜まりの花壇のキバナコスモスに下記タテハチョウが5、6匹飛び交っているので、撮って来た。この蝶類はすごい勢いで飛び回っており、「秋の蝶」とは全く違い、秋に一番増え、本州では冬を成虫で越すといわれる蝶で、ちょっと常識と外れたものなので載せた次第。
Photo  ヒメアカタテハ(姫赤立羽)。分布は関東以西。畑、公園、野原など都市周辺に多く見られる。羽を広げた大きさは55㎜位。コスモス、マリーゴールド、ヒメジオンで吸蜜。幼虫の食草はハハコグサ、ヨモギなど。移動性に富み、ヨーロッパからアフリカ大陸を渡って大移動もするそうだ。
Photo_2  ウラギンヒョウモン(裏銀豹紋)。本州中部以西、四国九州の山地、平原に生息。暖地では夏眠し、6月から夏、9月から12月に活発になる。ヒメタテハとよく似たものから吸蜜し、タテハと一緒に飛び回って居る。尚、ヒョウモンにはよく似た種類が多くあり、写真がウラギンであるか否か不明だが、模様、大きさ、生育期、生息地などから、最も可能性が高いと同定して記載した。間違いあればご指摘ください。

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2013年11月12日 (火)

争乱の戦国史67(Ⅳ7): 毛利元就の登場

 毛利氏は鎌倉前期、大江広元の子に始まり、その孫の代に安芸国吉田荘に本拠を移した。1404年(応永11)、守護・山名氏に対する安芸国人一揆を結ぶなど、安芸国衆と盟約したが、惣領・庶子家の紛争が絶えず、惣領家の優位は確立してない。1512年3月(永正9)、平賀・小早川・天野・吉川・高橋など国衆八名と共に、兄の毛利興元が一揆契約に署判している。元就1497年(明応6)、吉田郡山城主の安芸の国人、毛利広元の次男として生まれ、幼い頃は猿掛城に移って、兄・興元が毛利家を継いだ。
F67  1516年(永正13)に兄・興元が急死し、子の幸松丸がわずか2歳で後を継いだので、元就はその後見人となった。当時の中国地方は、周防(山口東部)の大内氏が長門、石見(山陰)、九州・四国の一部に勢力を張り、一方出雲(島根東部)の月山富田城を本拠とする尼子(アマゴ)氏が隠岐、因幡、伯耆、但馬、美作、備中、備前に及ぶ地域を支配していた。毛利氏はこの両勢力に挟まれ侵略の危機にあった。
 その時、尼子氏の武田元繁が、大内方で毛利家と婚姻関係にある吉川家の有田城を攻めて来た。救援にでた元就は武田軍を撃退。元繁を討ち取った。この有田合戦勝利により元就の名声は大いに高まった。この後元就は尼子方へ鞍替えした。

 1523年(大永3)、甥の幸松丸が9歳で若死にしたため、元就が家督を継いだ。この時、反対する重臣たちと、異母弟による反乱が起きたが、鎮圧した。反乱の背景には尼子経久の謀略があったとされ、当主になった元就は再び大内方へ鞍替えした。
 1540年9月(天文9)、この寝返りと、毛利氏の勢力拡大に対し経久は3万の大軍で吉田郡山城を攻めたが、元就はわずかな軍勢ながら籠城戦を選択し、5ヶ月にわたりよく守り、大内の援軍もあり防衛した。1541年1月(天文10)大内から派遣された陶晴賢の1万の援軍もあり尼子軍を撃退した。直後、経久は病死している。これらの戦闘により元就は戦国大名への第一歩を踏み出したのである

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2013年11月11日 (月)

寒さが厳しくなり始めた

 当地ではまだまだ紅葉が少ないが、今日から予報通り急に寒くなり、特に朝方の冷え込みが厳しく、最低気温が今日から10℃が続くとの予報。慌てて、セーターを引っ張り出す破目となった。予報通り、日中も20℃以下が予想される。

 この寒さながら、空は紺碧で、真赤なクロガネモチが聳えたっていたので、撮って来た。先日のタチバナモドキに続き、モッコク、モチノキなど木々の赤い実が目立つなかで、今日はそのクロガネモチを紹介。
Photo  クロガネモチ(黒鉄黐)。本州以南から南西諸島、沖縄。台湾、中国中南部に分布。雌雄異株の木。庭木とされ、都市環境にも耐え、公園樹、街路樹ともなる。名前が金持ちに通じるので縁起木とされる。モチノキの仲間だが、若枝、葉の軸が黒紫色故の名前。材は器具材、樹皮はトリモチ、染料となる。
Photo_2  同上の。果実は4~6個の核を持つ核果で、核1つに種子1つ入る。これも果実の先端にしべの痕がある。大きさ6-8㎜の実で、小鳥によく運ばれる。写真の実はまだ未熟だが、も少し熟すると丸い果実となる。黄色の実が付くキミノクロガネというのもある。

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2013年11月10日 (日)

争乱の戦国史66(室町Ⅳ6): 東北、伊達氏の台頭

 東北では伊達氏が元、陸奥国伊達郡の地頭識(ジトウシキ)を所持し、室町将軍方の京都扶持衆(関東公方管内で、幕府と通じ、関東公方を監視・牽制する役割を持った国人衆)の有力な一員として関東公方とは対立していた。鎌倉府崩壊後は、京都との結合のメリットは低下したが、この時期、伊達氏がさらに勢力を拡大させ、後に戦国大名化する上では大きな意味を持った。
F66  15世紀後半、伊達氏を取り巻く蘆名氏、最上氏、葛西氏、大崎氏らが勢力拡大を図っていたのである。
 伊達氏は代々当主が代わるたび上洛し、参勤する習わしであった。12代当主・成宗も、慣わし通り1483年10月(文明15)、京都入りし管領家・細川政国に挨拶、前将軍義政、将軍義尚、政所執事伊勢貞隆、将軍母・富子、実力者・細川政元等多数の要人宅を精力的に挨拶して回った。その他芸人観世大夫や将軍家の下働きめでにも贈り物を配り歩いたという。

 しかし、これが意外な形でその40年後、実を結んだ。1522年(大永2)、14代伊達稙宗(タネムネ)が10代将軍義稙(ヨシタネ)に接近し、12代将軍義晴の代始めの祝いの使者を送ったところ、突然陸奥国守護職に任命されたのである。室町幕府創業以来、奥州2州は探題に委ねられ、守護職は置かなかった。しかも、奥州探題・斯波氏奥州大崎氏羽州最上氏分かれたが、未だ続いていた。それを幕府は承知の上で伊達氏を陸奥国守護職に任じたのだ。
 守護の看板を獲得した稙宗は、上洛は取りやめ、領国支配の強化に奔走する。 
 稙宗は徴税や知行体制、軍役といった支配の体系化を進めると共に、分国法「塵芥集」を制定し、領国内の法秩序を整えた。「塵芥集」は他国の分国法に比べ、約170条に及ぶ最大級のものである。
 又、対外的には相馬氏、蘆名氏、大崎氏など周辺の有力諸家と婚姻を進め、東北地方での影響力を強めていった
 ところが、1542年(天文10)には、越後守護上杉氏へ三男・実元(サネモト)を養子に出そうとした稙宗を、嫡男の晴宗が幽閉するという事件が起こるのである。
 

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2013年11月 9日 (土)

相次ぐ偽装表示

 食材の偽装表示は、商品表示を偽装した場合は、偽表示だから、食品衛生法違反だと思うが、よくもまあこれだけ偽表示が「業界の常識」となっていたものだと感心する。消費者を全く馬鹿にした話でもあり、世界各国に日本の安心・安全を吹聴したのが恥ずかしいであろう。いや恥だけでは済まなく、全く信用を失墜したのでないか。
 重ねて、ホテルやレストランメニュー表示が偽装されているというニュースが相次いでいる。これは法違反を問えるのであろうか、詳しく判らぬが、これも客を馬鹿にしたものであり、海外からの観光客等からは迂闊に食事も出来ぬと警戒され、大きく日本の信用を落としたのではあるまいか。
 季節が寒くなって、その上心まで冷やされて、花がいつしか実に変る季節になった。
Photo  タチバナモドキ(橘擬き)。中国原産、明治時代に導入。橘に似た実の形からの名前だが、学名からピラカンサ、或は属名からトキワサンザシとも呼ばれる。鳥が種を運び各地で野生化。刺があるので嫌われるが、やせ地でも生育するので、緑化や庭木に用いられる。今頃実も熟している。
Photo_2  同上の。8㎜位の花が咲き、径6-8㎜位の橙黄色の実(写真)がなる。実の先端はご覧のように萼片が残っていて橘を連想させる。尚、トキワサンザシこれが、橙色なのに対しもっと赤に近い色をし、また葉が鋸歯状で裏に毛がある。更に原産が欧州南部というように、両者を区別する場合もある

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2013年11月 4日 (月)

苦闘の花検索

 苦闘と言うのはいささか大げさだが、最初この蕾をみて秋だから木の実をつけていると思い通り過ぎた。が次に通った時、実と思ったものが花開いているの見てびっくり。大木の傍の灌木と思い、図鑑やネットで検索を繰り返したが、この花は見つからない
 念のためと昨日、も一度通りすがりによく見ると、潅木でなく、大木に這って茂っている蔓性植物だった。自分の早とちりを恥じながら、帰って再度つる植物をネット検索した。するとつる植物図鑑なるページがあったが、名称だけが100種位ズラーと並んでいるもの。これを一つ一つクリックして画像を開いて行くと・・・・、あった!
 判ると珍しい木ではないが、この花は、初めて見たので、何としても知りたいとの変な執念を抱かせた花であった。苦心の結末を掲載する。名前はキヅタだった。
Photo  キヅタ(木蔦)。昔から日本に存在した植物。北海道以南に分布。常緑木本性で、ヤツデと同じウコギ科。冬でも葉があるので、別名フユヅタ。茎から気根(付着根)を出し、樹木や石垣に這い上る。写真は民家の庭先の大木に這い上っていたもの。学名Hederaはしがみつくの意。花期10-12月
Photo_2  接写の。茎の先に数個の2.5~3.0cmの散状花序をつける。真ん中に花盤が盛り上がっている。花は5弁花で黄緑色、花弁は3㎜位雄しべが5本立っているのが、写真でもお判り戴けよう。翌春6㎜位の青紫色の丸い果実をつけ、初夏には黒くなる。日陰に強い植物だが、花序を付けるのは日光が当たる枝だけと言う。

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2013年11月 2日 (土)

紅葉の季節、世相不穏

 銀杏並木や柿の実が色付き始め、朝夕の冷え込みと、深まりゆく秋を実感するこの頃である。しかし、先日中国が西太平洋で海軍が演習したのに対し、自衛隊が宮古島周辺を警戒監視したら、中国は「演習を邪魔した」と主張。一方自衛隊は昨日から沖縄離島周辺での「離島奪還」の演習を18日まで続ける。当然、中国は神経を尖らすであろう。
 また、食材偽装が行われていることが次から次へと明らかになっている。日本人の道徳性が疑われる。尚、「特定秘密保護法案」なるものが出てきた。国民を信用できないという前提の法律という印象が強い。情報管理は別問題である。「美しい国」は遠くなるばかり
 今日はまだまだ緑の濃い公園で、一本だけ色付いてひと際鮮やかな感じの1本の欅。
Photo  ケヤキ(欅、槻)。代表的な広葉樹で周知の木。寿命が長いので、庭木や公園・街路樹に使われ、各地にケヤキ並木」は多い。関東に多いのは、徳川幕府の奨励策によると言われている。材が堅く、木目も美しいので、建築材、家具材、細工物にと多用途がある。
Photo_2  同上。若葉と共に小さな花がつくが、この木は花より、春の若葉と、秋の紅葉が鑑賞の対象となる。特に一足早い紅葉が一きわ美しく感じられる。ケヤキの紅葉はに近い色茶、黄、などに分かれる。小枝を広げる樹形を好む人も多いようだ。

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2013年11月 1日 (金)

争乱の戦国史65(Ⅳ5): 武田信虎、甲斐統一

 武田家は、南北朝内乱期の信武より8代下って信虎に至る名門守護家である。古代以来の国衙機構により甲斐一国を支配してきた。しかし、宗家以外の一族は武田氏を名乗らず、夫々領地の地名を姓名とし土着してきた。守護家の一族とはいえ在地領主と同じ立場で、甲斐の戦国は一族の内部争いとなった。信虎が宗家の家督を相続した時はその争いがピークに達した時だった。

 1507年(永正4)、武田信虎は父・信縄(ノブツナ)の死により、若干14歳で甲斐源氏武田宗家の家督を相続、甲斐一国の守護大名となった。しかし、同族争いの中、翌年叔父・油川信恵(ノブヨシ)が信虎に襲い掛かり、続いて1515年(永正12)からは大井、栗原など一族が連合し敵対した。これはそれ程宗家権力が強くなり、同族の家臣化圧力を強めていたとも言える。そして今川氏親の支援を失った相手は1517年には崩れ去り、1519年(永正16)には一族の浦氏が反旗を挙げるや、本拠地を府中・躑躅ヶ崎館に移し、城郭を構えた。そして、一族・国人衆をここに集め、家臣団として組織し始めたのである。時に信虎26歳であった。
 その後、将軍義晴の上洛呼掛けに応じたり、義晴に書状を送るなど将軍家とは連絡を保った。又関東では衰微の扇谷上杉を援助のため、上野・武蔵・相模に侵入。同時に信虎は駿河の今川氏との連合をはかった。1536年(天文5)今川氏輝が死ぬとその弟・義元にその遺跡をつがせ、自分の娘をその正室とした。
F65  こうして、交戦の必要が無くなると、戦国大名として外征を必要とした。そこで、信濃国に目をつけ、防御線上の平賀・諏訪両氏制圧にかかる。1528年9月(享緑元)、諏訪口から攻め入ったが破れて帰国3年後の正月、逆に諏訪頼満が甲斐に攻込み、これに武田一族の浦・栗原氏が応じたため、信虎はこれら一族制圧の専念し、遂に1532年(天文元)、甲斐一国の統一を成し遂げた。
 諏訪氏との和睦で諏訪口が安定すると、次は佐久平の平賀氏攻略にかかり、1540年5月(天文9)、信虎軍は猛進撃し、平賀を次々破り、翌年6月、佐久郡の大部分を制圧して、甲斐に帰国した。この合戦には20歳の晴信(後の信玄)も入り、武名を上げた。

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