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2013年11月26日 (火)

争乱の戦国史73(室町Ⅳ13): 毛利氏の支配体制確立

 毛利元就は1540年(天文9)、尼子軍に本拠地吉田郡山城を攻められたが、陶晴賢を大将とする大内氏援軍に救われ、尼子軍を退けた。翌年、撤退した尼子方は尼子経久84歳で急死し、その後を早世した父に代わり孫の晴久継ぐという危機を迎えた。機に乗じて大内方は攻勢に出て、毛利氏も加わり翌1542年(天文11)、出雲進攻を開始し、翌年(1543年)には晴久を出雲月山富田城に攻めたが、容易に攻め落とせず、吉川家はじめとする大内方の国人の寝返りもあって大内軍は惨敗毛利軍も大きな被害を受けた。

 大内氏と尼子氏との争いが続く中、元就謀略を駆使し、勢力の拡大、安定化につとめた。まず国内の国人との関係で苦労した元就は、1544年(天文19)、三男・孝景を安芸沿岸部の有力国人竹原小早川氏へ養子として送り込み、同族の沼田小早川氏をも継承する。又、次男元春には元就の妻・妙玖の実家である安芸内陸部の有力国人・吉川家を継がせた。吉川家は当主興経から家臣団が離反したので、元就子息を推戴したのである。

 1550年(天文19)、こうして小早川・吉川の両家が毛利宗家を支える「毛利両川」体制が作られ、中国地方進出の基礎を整え、同時に毛利氏家臣団の内部の変革も迫られていた。
 1550年7月、元就は譜代の家臣・井上一族を粛清し家中の引き締めをはかった。井上氏が毛利氏と同じ国人領主であったため、主家を軽んじ、経済力に任せての専横が目立った。それで30余名を誅伐し、見せしめとしたものである。
F73 この後、元就は家臣238名に起請文を提出させて毛利への忠誠を誓わせ、奉行制を敷いて支配体制を固めた。
 更に1557年(弘治3)軍勢狼藉の禁止を誓約する2種類の起請文が書かれrた。一つは毛利家中の連署起請文で、242名の家臣が連署形式をを採って誓約した。もう一つ安芸国衆一揆契状で、元就以下、隆景(家督を継いだ子息)・吉川元春・小早川隆景、元就の女婿・宍戸隆家、平賀・天野。熊谷氏12名が傘連判で連署し「衆中」の権威を契約遵守の根拠とする典型的な一揆契状である。は弘治3年の「傘連判状」(毛利博物館蔵)

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