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2013年11月23日 (土)

争乱の戦国史72(室町Ⅳ12): 今川義元の登場

 今川家は足利一族の吉良家の分家に当る。吉良、今川両家は足利本家が断絶した時、将軍継承の権利が発生したほどの名門。南北朝の争乱での戦功で、遠江、駿河2ヶ国の守護となった。応仁の乱頃、当主義忠が死去すると、その嫡子・龍王丸派と義忠の従兄弟・小鹿範満派が家督を巡って対立。叔父にあたる北条早雲の仲裁で、竜王丸改め今川氏親が駿河守護に就任した。
 名将・早雲の多大な影響を受けた氏親は、土地と農民を直接支配する検地を行ったほか、54ヶ条からなる分国法「今川仮名目録」を制定するなど為政者としても非凡な面を見せた。また、産業振興面でも手腕を発揮。特に金山開発では坑道を掘り進み金鉱石を採取する工法を進め、金産出量を飛躍的に増やした
72 氏親の死後、後を継いだのは14歳の嫡男・氏輝だったが、支配体制を強化しつつも1636年(天文5)若くして急死した。この後継を巡り、花倉の乱と呼ばれる争いが発生する。玄広恵深と栴岳承芳の出家した子供達によって争われ、勝利した承芳が還俗し家督を継ぎ、義元と名乗った。この時活躍した名僧・太原雪斎の補佐を受けて、父・氏親の進めた国力強化と領地拡大に取り組んだ。
 先ず東方に於いて、氏親の時代に争った武田家とは1537年(天文6)に同盟を結んだ。武田家と衝突してきた北条家との関係が悪化し、北条氏綱の軍勢が駿河へ攻め込んできた。河東(富士川以東)を占領した北条軍と武田・今川軍との戦いは断続的に続き、河東一乱と呼ばれる大きな合戦が二度にわたり起こった。
 しかし、1545年(天文14)、北条方に反攻し、ひとまず鎮静化した今川氏は、氏親時代に進めていた東三河への侵攻を再開した。
 この頃、三河を統一した松平家は衰退し、代って尾張の織田信秀が進出していた。そこで、義元は松平家を取り込み、織田家を度々撃退し、三河を支配下に置くことに成功した。義元は氏親の定めた分国法33条に21条を追加して、幕府が一部荘園に守護が干渉するのを禁じた「守護不入」の否定も含まれ、今川家の完全な戦国大名化の証拠とされている。

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