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2013年11月19日 (火)

争乱の戦国史70(室町Ⅳ10): 天文法華の乱

 16世紀に入ると、本願寺による門徒動員が行われ、北陸各地に一向一揆が蜂起した。更に、享禄年間(1528-1532)には畿内の政治に係わり、門徒の軍事動員が行われる。義澄の子・義晴を将軍として擁立する細川高国と、阿波に落ちた将軍・義稙の養子・義維を推戴して1527年(大永7)堺に上陸した細川晴元(澄元の子)の両政権が対立していた。しかし、1531年(享禄4)、高国は晴元政権を支える阿波国人・三好元長のため、敗れて自刃し、晴元政権が誕生。だが、次第に晴元と元長が対立し、元長と組んだ河内守護・畠山義宜が晴元配下の木沢長政を攻める事件が起きた。この時、晴元は門徒出陣を本願寺に要請、大量の門徒出陣で、畠山義宜は殺され三好元長も晴元軍に攻められ自殺した。
 この後、奈良方面では細川晴元が中心となって近江守護六角氏や宗教的に対立する山門(延暦寺)・法華宗などが共同で一向一揆と戦い、1533年(天文元)、山科本願寺を焼き討ちする。門徒側も山科を焼き討ちした諸勢力を法敵とした。
F70 一向一揆に対抗する勢力では、京都の町人を中心とする法華宗徒の軍団が異彩を放った。宗派内部の分派も盛んだったが、応仁の乱までに十指に余る法華宗寺院が建立され1466年(文正元)、法華宗寺院は宗派内抗争を止め、応仁の乱中に勢力を強めた。1533年(天文元)には21の本山が立ち並び、一向一揆に対峙する信徒と僧侶の武装集団「法華衆」が成立した。これが法華一揆だ。
 京都の法華一揆の武装集団は一向一揆と衝突、細川晴元と共同して山科本願寺焼き討ち、つづく摂津・河内・和泉での一向一揆との戦いで活躍した。結果、京都の防衛は殆ど法華一揆に委ねられ、法華寺院の地位が著しく高まった。
 1533年(天文2)、石山本願寺が反撃に出て晴元は淡路に逃亡。将軍も細川氏がいない京都では、殆ど法華一揆が支配するところとなった。晴元が再び堺に上陸した時も、法華一揆が中核だった。
 しかし、1536年(天文5)山門が法華宗攻撃を開始し、7月遂に山門・六角軍が京都に攻め込み、9月入京した晴元のもとで、法華の寺院再興・布教はすべて禁止となった。1541年(天文10)、後奈良天皇の命で法華寺院は帰京が許され、復興する。

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