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2013年11月16日 (土)

争乱の戦国史69(室町Ⅳ9): 撰銭と東西通貨圏

 撰銭とは、通貨価値の低い銭貨の受け取り拒否や割増要求をしたり、価値の高い精銭での支払い要求の事である。何故、こんな問題が起きるかと言えば、中世日本では、朝廷も幕府も独自の通貨を発行せず、大量の中国戦(宋銭と明銭)が輸入され流通していたが、その中国銭に信用不安が発生したからである。
 中国銭は本来、中国が国家として、その価値を保証した貨幣であったが、15世紀半ば、明王朝が国家的支払を銭から銀に転換したため、銭貨の国家的補償を失い、それが日本にも波及したからである。

 これに対し、大内氏などは1485年(文明17)、撰銭令を発し、特定の悪戦以外の原則的撰銭の禁止と、明銭を2~3割混ぜて使うことを規定したもので、永楽銭など明銭の信用低下に対応したものと言われる。撰銭令は1496年(明応5)、1518年(永正15)にも出されたが、現状は増える一方で、売買当事者間での合意の上での撰銭でも両者処罰を命じた。大内氏は遠隔地交易をおこなう上からも、精銭が必要であった。段銭(税)を領主・大名に納める地下人の世界では、「通用銭」「商売銭」事足りており、それで領主にも納めようとするが、領主は困った。
F69 毛利氏領国では、石見銀山の飛躍的産出量増加により、銀貨幣が流通し始め、遠隔地取引で銀使用が可能になった。結果、毛利氏は撰銭令は不要であった。石見銀山付近図
 ところで、他の地域では、永楽末年頃から銭遣いから、米遣いへの転換が起きる。1560~1570年には畿内・西国の殆どの取引は、銭貨から米に移る
 一方、東北の北条氏の領国などでは、基準通貨は永楽銭であった。銭が市場の交換財であると共に、賦課基準としての政治的性格が強かったのである。当時、永楽銭は他の精銭の2倍の評価だったという。
 このように東西では銭貨の流通・評価に関しては、東海・関東・甲信越の東国は永楽銭が基準通貨圏であり、西国と異なる
 ところが、中国に端を発した銅銭の信用不安は、中国貿易を通じて、西国・畿内にも影響し、永楽銭の信用は不安定となる。そして、金山の多い東国では金銀の多い西国では銀が主力通貨と言う通貨体制が、近世の通貨体制へ引き継がれれるのである。

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