争乱の戦国史69(室町Ⅳ9): 撰銭と東西通貨圏
撰銭とは、通貨価値の低い銭貨の受け取り拒否や割増要求をしたり、価値の高い精銭での支払い要求の事である。何故、こんな問題が起きるかと言えば、中世日本では、朝廷も幕府も独自の通貨を発行せず、大量の中国戦(宋銭と明銭)が輸入され流通していたが、その中国銭に信用不安が発生したからである。
中国銭は本来、中国が国家として、その価値を保証した貨幣であったが、15世紀半ば、明王朝が国家的支払を銭から銀に転換したため、銭貨の国家的補償を失い、それが日本にも波及したからである。
これに対し、大内氏などは1485年(文明17)、撰銭令を発し、特定の悪戦以外の原則的撰銭の禁止と、明銭を2~3割混ぜて使うことを規定したもので、永楽銭など明銭の信用低下に対応したものと言われる。撰銭令は1496年(明応5)、1518年(永正15)にも出されたが、現状は増える一方で、売買当事者間での合意の上での撰銭でも両者処罰を命じた。大内氏は遠隔地交易をおこなう上からも、精銭が必要であった。段銭(税)を領主・大名に納める地下人の世界では、「通用銭」「商売銭」で事足りており、それで領主にも納めようとするが、領主は困った。 毛利氏領国では、石見銀山の飛躍的産出量増加により、銀貨幣が流通し始め、遠隔地取引で銀使用が可能になった。結果、毛利氏は撰銭令は不要であった。図は石見銀山付近図。
ところで、他の地域では、永楽末年頃から銭遣いから、米遣いへの転換が起きる。1560~1570年には畿内・西国の殆どの取引は、銭貨から米に移る。
一方、東北の北条氏の領国などでは、基準通貨は永楽銭であった。銭が市場の交換財であると共に、賦課基準としての政治的性格が強かったのである。当時、永楽銭は他の精銭の2倍の評価だったという。
このように東西では銭貨の流通・評価に関しては、東海・関東・甲信越の東国は永楽銭が基準通貨圏であり、西国と異なる。
ところが、中国に端を発した銅銭の信用不安は、中国貿易を通じて、西国・畿内にも影響し、永楽銭の信用は不安定となる。そして、金山の多い東国では金、銀の多い西国では銀が主力通貨と言う通貨体制が、近世の通貨体制へ引き継がれれるのである。
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