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2013年11月12日 (火)

争乱の戦国史67(Ⅳ7): 毛利元就の登場

 毛利氏は鎌倉前期、大江広元の子に始まり、その孫の代に安芸国吉田荘に本拠を移した。1404年(応永11)、守護・山名氏に対する安芸国人一揆を結ぶなど、安芸国衆と盟約したが、惣領・庶子家の紛争が絶えず、惣領家の優位は確立してない。1512年3月(永正9)、平賀・小早川・天野・吉川・高橋など国衆八名と共に、兄の毛利興元が一揆契約に署判している。元就1497年(明応6)、吉田郡山城主の安芸の国人、毛利広元の次男として生まれ、幼い頃は猿掛城に移って、兄・興元が毛利家を継いだ。
F67  1516年(永正13)に兄・興元が急死し、子の幸松丸がわずか2歳で後を継いだので、元就はその後見人となった。当時の中国地方は、周防(山口東部)の大内氏が長門、石見(山陰)、九州・四国の一部に勢力を張り、一方出雲(島根東部)の月山富田城を本拠とする尼子(アマゴ)氏が隠岐、因幡、伯耆、但馬、美作、備中、備前に及ぶ地域を支配していた。毛利氏はこの両勢力に挟まれ侵略の危機にあった。
 その時、尼子氏の武田元繁が、大内方で毛利家と婚姻関係にある吉川家の有田城を攻めて来た。救援にでた元就は武田軍を撃退。元繁を討ち取った。この有田合戦勝利により元就の名声は大いに高まった。この後元就は尼子方へ鞍替えした。

 1523年(大永3)、甥の幸松丸が9歳で若死にしたため、元就が家督を継いだ。この時、反対する重臣たちと、異母弟による反乱が起きたが、鎮圧した。反乱の背景には尼子経久の謀略があったとされ、当主になった元就は再び大内方へ鞍替えした。
 1540年9月(天文9)、この寝返りと、毛利氏の勢力拡大に対し経久は3万の大軍で吉田郡山城を攻めたが、元就はわずかな軍勢ながら籠城戦を選択し、5ヶ月にわたりよく守り、大内の援軍もあり防衛した。1541年1月(天文10)大内から派遣された陶晴賢の1万の援軍もあり尼子軍を撃退した。直後、経久は病死している。これらの戦闘により元就は戦国大名への第一歩を踏み出したのである

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