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2013年11月 1日 (金)

争乱の戦国史65(Ⅳ5): 武田信虎、甲斐統一

 武田家は、南北朝内乱期の信武より8代下って信虎に至る名門守護家である。古代以来の国衙機構により甲斐一国を支配してきた。しかし、宗家以外の一族は武田氏を名乗らず、夫々領地の地名を姓名とし土着してきた。守護家の一族とはいえ在地領主と同じ立場で、甲斐の戦国は一族の内部争いとなった。信虎が宗家の家督を相続した時はその争いがピークに達した時だった。

 1507年(永正4)、武田信虎は父・信縄(ノブツナ)の死により、若干14歳で甲斐源氏武田宗家の家督を相続、甲斐一国の守護大名となった。しかし、同族争いの中、翌年叔父・油川信恵(ノブヨシ)が信虎に襲い掛かり、続いて1515年(永正12)からは大井、栗原など一族が連合し敵対した。これはそれ程宗家権力が強くなり、同族の家臣化圧力を強めていたとも言える。そして今川氏親の支援を失った相手は1517年には崩れ去り、1519年(永正16)には一族の浦氏が反旗を挙げるや、本拠地を府中・躑躅ヶ崎館に移し、城郭を構えた。そして、一族・国人衆をここに集め、家臣団として組織し始めたのである。時に信虎26歳であった。
 その後、将軍義晴の上洛呼掛けに応じたり、義晴に書状を送るなど将軍家とは連絡を保った。又関東では衰微の扇谷上杉を援助のため、上野・武蔵・相模に侵入。同時に信虎は駿河の今川氏との連合をはかった。1536年(天文5)今川氏輝が死ぬとその弟・義元にその遺跡をつがせ、自分の娘をその正室とした。
F65  こうして、交戦の必要が無くなると、戦国大名として外征を必要とした。そこで、信濃国に目をつけ、防御線上の平賀・諏訪両氏制圧にかかる。1528年9月(享緑元)、諏訪口から攻め入ったが破れて帰国3年後の正月、逆に諏訪頼満が甲斐に攻込み、これに武田一族の浦・栗原氏が応じたため、信虎はこれら一族制圧の専念し、遂に1532年(天文元)、甲斐一国の統一を成し遂げた。
 諏訪氏との和睦で諏訪口が安定すると、次は佐久平の平賀氏攻略にかかり、1540年5月(天文9)、信虎軍は猛進撃し、平賀を次々破り、翌年6月、佐久郡の大部分を制圧して、甲斐に帰国した。この合戦には20歳の晴信(後の信玄)も入り、武名を上げた。

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