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2013年10月

2013年10月31日 (木)

長寿命の蘭

 これはオンシジュームと言う最もありふれた洋蘭。小生の庭の木に吊り下げられっぱなし(何の手入れも一切しない)ながら、毎年花をつけるので捨てられずに放置しているもの。
 若い頃、洋蘭に凝った一時期があり、各種洋蘭の鉢植を作ったが、冬期には室内取込み、毎年植え替えなど結構手間もかかり、その内飽きて止めてしまい、東洋ラン(寒蘭)に切り替えた。が、このオンシジュームだけなぜか放置したまま(水やりもしない)でも、毎年咲き続ける点が珍しいのでご紹介。小さな素焼きの鉢に昔入れた水ゴケだけで、庭木の日陰に吊っているもので、病害虫、も無関係のようだ。
Photo  オンシジューム。別名スズメラン(雀蘭)。花が小鳥が飛んでいる様からの名。中南米中心に分布。樹上に着生する洋蘭の一種。卵形のバルブ(偽球茎)から葉を出し、花茎もバルブから出て伸びて、多数の花を総状、円錐形に着ける。晩夏~秋、40日位咲き続ける。5℃以上で温室不要。
Photo_2  同上。この花どこが何だか分かりにくい。花の上部後方茶色模様のは5枚の萼で、その前の部分が花の上部(萼の手前)小さな外花被が3枚内花被が3枚なのだ。この内花被の内の1枚大きい花びら唇弁という。この上方の茶色の部分に小さな雌しべが1個、雄蕊3個あるが判りづらい。

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2013年10月30日 (水)

争乱の戦国史64(室町Ⅳ4):東の三大名家の萌芽

 伊勢盛時(北条早雲)は1495年(明応4)小田原城を奪い、1500年代初めまで、今川家の家臣格として遠江、三河侵攻に参加。その後、1512年(永正9)81歳になった早雲は、相模1国平定のため先ず三浦氏居城岡崎に攻込み、鎌倉を手中にした。1516年(永正13)、三浦氏を滅ぼし、扇谷・山内両上杉氏を完全に伊豆、相模から駆逐1519年(永正16)、87歳で死没する1年前に家督を2代目氏康に譲った。その頃から、北条を名乗っているが、これは正統国主であることを主張せんがための氏姓の変更だと言われている。
 この時期の関東は未だに山内・扇谷両上杉と古河公方らによって争いが続いていた。

 一方、今川氏親は叔父に当たる伊勢盛時(早雲)の助けによって後継争いに勝って、今川の戦国大名化を進めた。1526年(大永6)氏親が制定した「今川仮名目録」は、戦国時代の代表的な分国法の一つとしての評価が高い。氏親は領地拡大にも意欲的で、遠江更には三河へと侵攻を繰り返し、1517年(永正14)には有力武家の斯波義達を倒して遠江を支配下に置いた。が、三河への侵攻は松平家の抵抗に遭いうまく行っていない。
F64_2  甲斐では、武田家が鎌倉時代より続く名門だったが、一族の多くの勢力争いのため、宗家は相対的に弱体化していた。しかし、武田家守護職を伝え、国府の地を本拠として、伝統ある国衙の支配機構も掌握し、一国を支配すべき構えを持っていた。宗家から分かれた一族は夫々の在所名を姓として、領主となっていたが、甲斐にはこの一族の相剋も激しくなっていたのである。
 その中で、宗家の武田信虎は、父の代から数十年に亘る主導権争いに勝利し、1507年(永正4)、父・信縄の死後、信虎は14歳で家督を継いだ。そして、国人小山田氏と縁戚関係を結ぶなどし、一族の家臣化を進め、1519年には本拠を府中に移し、1527年(大永7)頃には甲斐統一に成功する。(北条、今川、武田の勢力図
 関東では北条、今川、武田の隣接する3家は時には争い、時には同盟しながら、戦国時代を代表する大大名に変貌してゆく

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2013年10月29日 (火)

深まりゆく秋

 朝夕の冷え込みも例年並と成り、起床時の寒さに思わず身をブルッと震わせる昨日今日である。しかし、昼間の晴れ上がった青空を見るとさわかやな”秋”を感じる。木々も秋の花を付け、中でも金木犀が今盛りとなって、甘ーい感じのいい香りを発している
Photo  キンモクセイ(金木犀)。中国南部の桂林原産。銀木犀の変種である。雌雄異株であり、日本には雄株しか入ってないので、結実しないと言う。細い枝が密集するので、刈り込んで整形しやすく、生垣によく使われ、又香がいいので、庭木や公木などに多用されている。ヒイラギ木犀はヒイラギと銀木犀の雑種。
Photo_2  同上の。雄しべが2本と不完全な雌しべをもつというが、この写真では判然としない。花が芳香を放つが、各種の香り成分が入り交じっての香である。花冠は白ワインに漬けたり(桂花陳酒)、茶に混ぜ(桂花茶)たり、密煮にして圭花醤という香味剤になるという。

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2013年10月27日 (日)

台風一過、秋晴れの好天気

 心配された台風27号は東海地方の南方海上を東に去り、不連続線の発達した東海地方特に静岡には水害も発生したが、危惧された伊豆大島には大きな影響もなく過ぎ去った
 ほっとした後、昨日は日本シリーズも始り、今日は久しぶりの秋日和で、朝の冷え込みの後、暖かい日ざしが穏やかである。
 花々も秋の花が咲き始めた。今日は所々で目にするようになったツワブキ。
Photo  ツワブキ(石蕗、艶蕗)。イシブキ、ツワとも言う。艶葉蕗(ツヤバブキ)即ち「艶のある葉の蕗」が転じた由。福島・石川県以西から琉球諸島に分布。花期は10-12月。葉は常緑性で、日陰でもよく育ち、特に斑入りは庭にもよく植えられている。葉の茎はキャラブキとして食用となる。
Photo_2  同上の。花は花径を伸ばし、その先端に散房花序を形成する。花径は4-6cm。花後はタンポポのような綿毛の種が出来て、に乗って散ってゆく

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2013年10月26日 (土)

争乱の戦国史63(室町Ⅳ03): 尼子氏の出現と西国

 尼子(アマゴ)氏は、北条早雲、斎藤道三らと並び、下克上で成り上がった戦国大名の典型と言われる一方、守護の権力に依存し、大内氏と同様、旧秩序から脱却できなかった大名とも評される。確かに本来近江出身の京極氏一族であった尼子氏の出雲国での活躍スタートは遅く1439年(永享11)に守護被官として確認できるのが最初だ。
 その後、応仁・文明年間に、守護・京極氏の守護代として急速に勢力を伸ばした。但し単に守護権力をそのまま奪取したのではなく、出雲国内の拠点を確実に押え、一国を着実に掌握した。中でも、応仁・文明の乱期、出雲の有力領主・松田氏に代り、需要な港湾・美保関を支配し、日本海海運に深く係わり始めた事に注目される。又幕府奉公衆で、将軍直属の武家だった、出雲西部の有力国人塩冶(エンヤ)氏は、守護権に対抗しうる存在だった。その塩冶氏家督継承者に尼子経久の三男を送りこむのに成功したのである。その結果、尼子氏は塩冶氏を滅ぼし、その根拠で交通の要衝・朝山郷一帯を獲得し、大きく勢力を伸ばした。
63  こうして、1508年10月(永正5)、出雲守護・京極政経が死去し、孫に家督が譲られた際、その譲り状と家伝の重代の文書は、守護代尼子氏と重臣多賀氏が預かった。1520年(永正17)頃までは守護は京極氏だったが、そして実質的守護権限尼子氏が握っていると認識され、次代の晴久の代1552年4月(天文21)には、将軍義輝より他の6ヶ国守護職補任と共に、出雲・隠岐の守護について公認された。大永年間(1521~28年)から、尼子氏は本格的な他国への進出を開始するが、それまでの間は、軍事的成功を背景に出雲の領国統治に専念した。(図:当時の勢力図、「戦国大名勢力変遷図(外川 淳著)」より)

 この時期、西国の他の大名は、同族争いの中で、混迷を深めていた。例えば、薩摩の名族・島津氏の場合でも、薩摩・大隅日向三ヶ国の守護職と島津氏家督とが15世紀初頭から一体化していたに関らず、一族が多くの庶家に分立し、16世紀初頭20年間、抗争を続けたのである。1526年(大永6)、相州家の貴久が本宗家勝久の養子になって、他の庶家を退け、守護の地位を確立、戦国大名家の基礎が形づくられた。

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2013年10月25日 (金)

台風27号接近か

 沖縄の東方を進んでいる台風27はゆっくりと向きを北東に切り替え北上し始めている。26日0時紀伊半島南方海上を通過する見込みのようだが、又もや伊豆大島が風と共に、大雨に見舞われやしないかと危惧されている。大島町長は今回は早めの対応をと考えてか、今日にも全域に避難勧告を出す予定と言っている。しっかりと歩けない高齢者の心配げな様子をテレビで拝見する度、胸が痛む。何とか東に逸れて、雨が少ない様にと祈っている。
 当地(福岡)では雨も止んで、花も元気よく咲いている。今日はコバノセンナ
Photo  コバノセンナ(小葉の旃那)。学名Sennaから来た名前。南アフリカ原産とか熱帯アメリカ原産とか、説が分かれている。岡山以南では野外で越冬できるというこの花が、今福岡で満開。樹高3m位になるからか、このように庭木にしている家は珍しい。果実や葉の浸剤が健胃剤や下剤と成る由。
Photo_2  同上の。花径は3-5cm5弁花であるが、中心の2本の湾曲した雄しべ(茶色)が左右に開き、中心に一本の雄しべがあるちょっと変わった花である。これを見ると、どうしてこんな複雑なつくりになっているのか、不思議に思う。

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2013年10月24日 (木)

争乱の戦国史62(室町Ⅳ02): 流浪の将軍と大内氏

 明応の政変に敗れ、細川政元の武将・上原元秀屋敷に幽閉された足利義稙(ヨシタネ)(義材)は、1493年6月(明応2)、暴風雨に紛れ逃れて、越中の畠山尚順(ヒサノブ)の領国に走った。そこで少人数ながら直臣の武家、公家を伴い形だけは政権の体をなし、各地の有力大名に上洛軍を催促し、又事実上の力になる勢力や諸寺、一向一揆首領などにも挙兵を呼び掛けた
 1498年(明応7)、細川政元と和睦の話が進んだが、和睦交渉は実らず、義稙は越前朝倉氏の一乗谷に入り、1年近く留まったが、結局上洛は果たせず、1500年(明応9)初頭に大内義興に迎えられ、周防に入る。大内義興は畠山氏とは血縁があり、又義稙とも人間関係が深く、大内氏を頼ったのは当然だった。
 唯、この時期、大内氏は守護国の筑前・豊前情勢が厳しく、その地をめぐり対立する少弐氏、大友氏は敵対する義澄(11代将軍)方について攻勢をかけて来た。従って1508年(永正15)、義稙を擁して入京した大内義興はさいごくの雄として大きな勢力を持ったものの、国元不安は石見・安芸方面でも同様で、結局義興は1518年(永正5)下国せざるを得なかった。

62_2  前述のとおり、義稙1500年以来、8年間周防に留まった後、1508年大内義興と共に入京し、管領・細川高国に擁立され、同年7月将軍再任となった。
 高国・義稙政権は入京当初は不安定で、義澄・細川澄元方に敗退する戦いが何度かあったが、京都船岡山の合戦劇的勝利を収め、義稙・細川高国・大内義興連合政権が一転安定を得る。ところが1513年3月(永正10)、義澄の子(義晴)と義稙政権が「御合体」という和睦をなした。これは子のいない義稙の次の将軍候補を手中に置く高国の策であったとも言われる。(大内氏上洛と九州中国勢力図
 その5年後(永正15)、大内義興に分国への帰国を機に、政権内の力関係は崩壊する。三好之長(ユキナガ)を中心とする細川澄元支持の四国衆の軍事行動が激化し、義稙は一時上洛の澄元・之長を受入れたのである。その後、澄元らを逐って高国が再び京都に復帰するが、政権内部、義稙・高国に生じた隙間は戻らなかった。そして1518年(永正15)、高国は足利義晴を12代将軍として擁立し、1521年(大永元)義稙は京を秘かに脱出し再び戻ることはなかった。

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2013年10月23日 (水)

風雲急を告げている空模様

 今日は朝から降ったりやんだりの模様で、黒い雨雲が早足で流れている。天気予報では、台風27号の影響であろうが、この台風も26号とほぼ同じコースを辿りそうだと、厳重警戒を呼び掛けている。
 とりわけ伊豆大島の方々にとっては「どうしてまた同じコースをたどるのか」と恨めしく思われているであろう。そこに更に28号が発生、北上しており、最悪の場合、その影響で、27号が通り抜けるのに時間もかかり、もし迷走すれば更に被害が大きくなると言う。
 このため、早めに島を出る方々も居られるが、やはり島外への非難を嫌がる人が多いと言う。心情がよく分るだけに、余計に哀れさが増し、同情に耐えない。後は何とかコースが外れ、勢力が弱まるのを祈るばかりである。
 そんな状況下、今日は秋が深まる中でようやく咲き始めた紫紺野牡丹を紹介。
Photo  シコンノボタン(紫紺野牡丹)。別名スパイダーフラワー。中南米原産。花期は夏~秋。だが、当地では9月に咲き始めたが、雨がふらず、一時この木は花が消えてしまっていた。10月になって、雨が降りようやく咲き始めたもの。これから咲き続けるであろう蕾が沢山ついている。但し風に弱いそうだ。
Photo_2  同上の。5弁の大輪花。雄しべが長く飛び出しているのが特徴で、これが蜘蛛の足に似ている処からの別名である。一日花で毎日次々と咲く。温度があれば冬でもわずかながら咲くこともある由。耐寒性の強い花だが乾燥に弱いとか。

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2013年10月21日 (月)

怖い台風27号

 安倍首相の目指す「美しい国・日本」が守れるか。強い台風27号が26号とほぼ同じコースをたどるように北上中だ。24日頃は再び、関東・東北方面に向かいそうだ
 先ず伊豆大島。前回の傷跡も癒えないままに更に、上乗せして大島を襲ったらどうなるだろう。かっての噴火から立ち直り、漸く平穏な日常であったろうに、この上の更なる被害が起きぬように祈ると共に、行政の十分な対応を望むものである。
 ついで福島第一原発の汚水タンク群。これを囲う堰の高さを上げる計画が実施されずいる。何故こんな必要緊急対策を後回しにしているのか。東電も、政府も為すべき第一義がなんであるか判っているのだろうか。少なくとも国民感情とは乖離しているとしかいい様が無く、残念である。いろいろ問題が多いこの頃だが、秋が静かに深まっている。今日も先日の紫御殿の同属の花を紹介。

Photo  トラディスカンティア・シラモンタナ(Tradescantia sillamontana)。長い名前だが前回と同じ露草属。園芸名はシラユキヒメ(白雪姫)。流通名はホワイト・ベルベット。花好きらしい民家の花壇にあり、毎年花を咲かせる。株全体が長い柔らかな毛で覆われベルベットのような質感の観葉植物
Photo_2  接写の。前回の紫露草や紫御殿と同じ花。唯葉が全然違い、観葉植物らしく、美しい葉である。半日陰から日向での生育がよく、乾燥気味にして、肥料は控え目がよいとか。花期は5-11月と長い。

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2013年10月20日 (日)

争乱の戦国史61(室町Ⅳ01): 早雲、相模国を制覇

 今回より室町Ⅳ期として、戦国大名が台頭群雄割拠する、本当の戦国時代を記述する。
 伊豆征服を果し、韮山に本拠を置いた早雲の次の敵山内上杉であった。山内上杉氏は越後上杉氏やかっての敵・古河公方と連携し、同族扇谷上杉氏との抗争を続けていたので、早雲はこの扇谷上杉朝良と手を結んだ。
 この時期、両上杉の間で、多くの領主が揺れ動く流動的状況の中、早雲は伊豆侵入以来、3年間は領国支配に専念した。そして扇谷上杉定正とその武将・小田原城主大森氏頼、新井城主・三浦時高の死亡では、迅速な行動を開始した。
 1495年2月(明応4)、早雲は鹿狩りを装い兵を小田原城に近寄せ、城主・大森藤頼(氏頼の子)の無警戒に乗じ、難なく小田原城を占領。関東の橋頭保となる城を獲得した早雲は、家臣を入れ、自分は韮山城で相模武士団の帰服を待った。
61_3  小田原周辺の国人衆、百姓・職人らの所領や所職を安堵し、重用もして人心掌握に務め、相模衆も早雲の下知に従うようになった。そして10年後の1504年(永正元)、山内上杉顕定討伐の頃には、合戦に動員する国人衆、百姓完全に掌握していたという。
 早雲は外交面でも機敏に動き、1494年(明応3)以来、今川氏親を助け三河にも出撃する律儀さも見せ、1508年(永正5)には、氏親が足利義尹から、遠江守護に任命されている。この時深謀遠慮から尾張織田氏とも連絡を取った。又、1509年(永正6)には、両上杉ら旧勢力を関東から一掃するために、越後の守護代・長尾為景(上杉謙信の実父)とも連携している。
 1516年(永正13)、早雲は相模の名族三浦氏を新井城(現三浦市三崎町)に滅ぼし相模制圧に成功した。古河公方内部の抗争も、早雲に支持された足利高基(政氏の子)が勝利するが、鶴岡八幡宮別当の空然(高基の弟)が、高基に対抗すべく、還俗して「小弓御所」足利義明となる。この状況下、早雲死去1年前、跡を継いだ氏綱は、古河公方・高基と結んで、扇谷上杉朝興・足利義明に対抗し、やがて古河公方の権力自体を我がものにして行く。
諸問題が一段落した1523年(大永3)、氏綱が名字をから「北条氏」に変えた。これは正統国主としての相模支配者を主張したものである。

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2013年10月19日 (土)

Windows市場に陰り?

 マイクロソフト社のパソコン用基本ソフトウィンドウズ(Windows)は事実上のOS標準ソフトであった。パソコンがある限り永久不滅のソフトと思っていたが、最近のタブレット携帯型端末(スマートフォンなど)の急速な普及で、パソコン市場に縮小傾向が出て来たと言うのだ。勿論Windows8の評判がよくないからと、新たに8.1を売り出したが回復傾向に繋がっていないとか。考えれば、昔から通信、情報伝達、最近では情報検索の手段は常に進歩を重ねているのだから、Windowsだけが永久不滅とは限らないのは当然の理だ。パソコンが永久不滅と思っていたのは完全な錯覚だった。三次元テレビの普及がいつになるかなど、生活直結の科学技術の発展進歩は好もしいのかもしれないが、老人にはあまり変わってほしくないとい気持ちもちょっぴりある
 急に秋が深まり始めた感だが、今日は、梅雨時期には元気に咲いていたが、猛暑と水不足でか消えてしまっていた花が、今元気よく再び咲いている、紫御殿。
Photo  ムラサキゴテン(紫御殿)。歩いていると路傍で、この花が咲いているのを見つけた。メキシコ原産。耐寒性はないが、日本では東京以西で越冬可。多肉質で乾燥には強い。日本には1955年に渡来した新しい花。花は紫露草と同じだが(同じ紫露草属)葉が違う。全部紫色で、観葉植物
Photo_2  接写の朝に咲いて昼ごろには萎む短命な花だが、次々と咲く。濃い紫の花をつける故の名前。花弁は3枚6本のしべは雄しべで、先端の黄色の葯に花粉が入っている。雌しべは1本で、先端が白い。別名パープルハートセトクレアセア(園芸種名)などがある。

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2013年10月18日 (金)

争乱の戦国史60(室町Ⅲ20): 北条早雲の登場

 北条早雲の出自は謎とされてきたが、現在は次の説が正しいとなっている。即ち、「早雲は、室町幕府政所執事と言う重職を世襲した名家・伊勢氏の一門で、父は八代将軍・義政の申次(取次役)・盛定だった。そして、その子・伊勢新九郎盛時も、九代将軍義尚の申次で、側近く仕える身だった」という。この伊勢盛時が後の北条早雲庵宗瑞(出家後の号)である。
 早雲は若いとき、将軍・義政の弟・義視に仕え、応仁の乱で義視に従い、一時伊勢に下る。が、その後京に戻った義視には従わず浪人と成り、後将軍義尚の近江出兵前、1487年5月駿河に下っている。早雲の妹・北川殿が今川義忠に嫁いだのも将軍との関係からと言われ、北川殿の子・今川氏親が甥となる。
 この頃(1487年)、堀越公方(足利政知:10代将軍義澄の父)を助ける任にあった堀越(伊豆国)の隣国・駿河の今川氏が大きな内紛に直面していた。今川氏親が叔父・伊勢盛時と共に今川(小鹿)範満を討ったのである。氏親の父・義忠は駿河守護で、応仁の乱中遠江守護職を自力奪回のため遠江に出兵、東幕府方の支持もなく、1476年(文明8)に戦死。その後、義忠の従兄弟・小鹿範満が、扇谷上杉家の家宰・太田道灌らの後援を得て実権を握っていた。
F60  ところが、太田道灌が主・上杉定正に殺されたことから事態が急変、氏親らが範満殺害に至った。そこで、伊勢盛時、すなわち北条早雲は範満を打倒し、甥の氏親らが当主に据えた。この功績で、早雲は沼津の興国寺城主となった。
 混乱に乗じ領地拡大を図った早雲の次の目標は堀越公方の所在地伊豆だった。堀越公方・政知は潤童子を跡継ぎとし、兄弟での将軍と鎌倉公方への就任を図った。だが、義尚後の将軍は我が子・清晃でなく、義視の子・義材だった。そして、政知が1491年(延徳元)没し、政知後継のから外された庶子の茶々丸が潤童子を殺害、自ら堀越公方となった。(は当時の関東勢力図
 早雲がその茶々丸に対し兵を起こしたのは明応の変の直後(1492年)で、明応の変で将軍となった義澄(清晃)と母と子(潤童子)を討った仇の名義を着せ、早雲は伊豆に攻め入った。そして茶々丸を敗死させ、伊豆征服に成功して一国一城の主となったのである。

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2013年10月16日 (水)

漸く秋の花が咲きだした

 台風一過、急に涼しくなって秋らしくなった。そんな時、やなせたかしさんの訃報がはいった。「アンパンマンを書いた漫画家」と言えば皆知っているだろう。当初、「あんな下らぬ絵本」と酷評された、図書館には置くなとの批判があったとか。しかし、大人が予測できないことが起った。図書館ではいつも貸し出す中、保育園の絵本読まれ過ぎていつもぼろぼろ。子供等はその面白さを素直に評価したのだ。氏は作詞、作曲、作詞、イラストとあらゆる分野で活躍、大好評のスーパーマンだった。ご冥福を祈る。
 雨のおかげで、秋の花々がやっと元気に咲きだした。今日はその中でコスモスと並んで最も秋らしいセイダカアワダチソウ花粉症の元凶のように言われ、在来種を駆逐すると嫌悪され、悪評の代表のように言われたのは一昔前の話。
Photo  セイダカアワダチソウ(背高泡立草)。北アメリカ原産。明治末期、園芸目的で移入された帰化植物。代萩と呼ばれ、切り花用に萩の代役とされ、又乾燥した物は萩に代りすだれに使われる。花粉症は似た草「ブタクサ」によるもので、全くの濡れ衣だと判った。最近は繁殖し過ぎの結果、衰退期に入った。
Photo_2  接写の。花穂全体が黄色いが、一つ一つの小さな花がこの様に、沢山寄り集まっているのだ。それでミツバチが喜んで寄って来る、養蜂家が一番安定した蜜源植物としているように、虫媒花なのだ。従って、風媒花のように大量の花粉をとばすことはあり得ないのだ。

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2013年10月15日 (火)

怖い話

 今日は新聞休刊日。よって昨日の新聞、先ず「原発関連機器輸出」で、過去10年間で、日本からの輸出額の約4割・511億円分は国の「安全確認」の手続きが行われずに輸出。これは制度上の問題。次は、福岡医院での火災における防火扉が不作動。これは明らかに人災。防災基準を厳守して無い建物は意外に多い。規制を如何に厳守させるかが問題。最後に怖かったのは、ミックス粉にダニの問題。これは基準のない問題。ダニによるアレルギー症状を発症する(じんましん、せき、息苦しさなど)が、小麦アレルギーと誤診されるケースが多いという。お好み焼きやお菓子に使われているので、子供に発症しやすい。製造者は商品に保管法と賞味期限を明確に表示し、消費者を保護すべき(製造者責任)だ。曖昧な問題だから、上記2件より最後の問題が一番怖い
 今日は、秋が進む中で、見事に咲いているタマスダレ。
Photo  タマスダレ(玉簾)。この花はペルー原産明治初期渡来したもので、別名ゼイフィランス(学名より)。ピンクのは、西インド諸島原産江戸末期に渡来したサフランモドキと呼ばれるのも同じ仲間で別名レインリリー。花を玉、葉をすだれに見立てての名前。雨後に一斉に花をつけた。
Photo_2  :同上。花径1本に1花。花は短命で1-3日で萎む。雄しべ6本雌しべ1本(先が白い)。6枚の花弁は付け根のところで繋がっている筒状花である。半日陰では半開きとなる。花色は白、ピンク、黄色がある。これはリコリン(アルカロイド)を含み、ニラとの誤食で、おう吐、ケイレンが起る

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2013年10月14日 (月)

争乱の戦国史59(室町Ⅲ19): 明応の政変

 1490年(延徳元)将軍に就いた足利義材(ヨシキ)(義植(ヨシタネ))は、1492年9月、近江中郡や北部の高頼党を討ち、近江一国をほぼ平定し、京都に凱旋した。
 その勢いに乗じ、1493年2月(明応2)河内征討の軍を起す。当時応仁の乱以来の両畠山(義就(西軍)と政長(東軍))の抗争が続いていたからである。その年、義就(ヨシナリ)が死に、第2子の義豊は河内・誉田(ホンダ)城に立て籠もり仇敵の政長方に対した。一方の政長幕府の宿将として、その勢力は他をはるかに圧しており、対抗できるのは若い細川政元(京兆家勝元の子)がいるだけであった。
 将軍・義材は、政長の勧めるままに、義就の死を好機とばかり、政長とそのその子・尚順、斯波義寛、赤松政則らを従え、誉田城攻略に出京した。
 これは将軍自ら政長に肩入れし、義就の後を継いだ子・基家と結びつく動きを見せる細川京兆家(政元)を牽制しようとしたものと言われる。当然、政元は義材に従わず、京に残留した。
F59_3  そして1493年4月(明応4)、クーデターが決行された。畠山政長の専横に不満であり、且つ義材の将軍職襲職も快く思っていなかった細川政元は義材の対抗馬として、堀越公方政知の子・天竜寺香厳院清晃(キョウゴウインセイコウ)の擁立を決意した。その背後には畠山義就・義豊に味方する越智家英や古市澄胤らが、義材に反旗をひるがえす決意を迫る策動があった。 それとは知らぬ将軍義材は畠山義豊の軍兵と戦っていた。細川政元は両軍の形勢を聞きながら、4月22日ついに清晃を遊初軒に迎え入れ、翌日擁立を上奏した。更に、閏4月には政元の被官らが、河内国正覚寺陣に義材を攻め、畠山政長以下、有力家臣を切腹させると共に、義材を上原邸に幽閉した。清晃は義高(義澄)と改名し。翌年(1494年)12月には正式に11代将軍に就位した。このクーデターにより、将軍の権威は地に落ちたが、一方政元も南山城の国人・地侍や大和興福寺の国侍に支えられての権勢ではあった。これが明応の政変である。但し、後に幽閉中の義材が越中に脱出し、御座所を構え、能登畠山氏、越前朝倉氏、越後上杉ら大名が参じ、御内書を発したので、二人の将軍が現出し、幕府は再び分裂する事になる。

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2013年10月13日 (日)

一挙に秋へ

 一昨日まで最低気温20-22度、最高気温30-32度と夏の名残の暑さだったのが、今朝は最低16度、最高予報25と一挙に平年並み以下に急降下。未だ早朝ウオーキングを続けている小生とって、先ず出発時の服装を如何にすべきか迷った末、長ズボンのトレーニングウエア、上も長袖のトレーニングシャツ(昨日までは半そで短パンだった)にて外へ出てみた。朝の5時40分。まだ暗く街灯の明りで歩く。出た途端冷たい空気に包まれヒヤッとしたが、又着替えも面倒とそのまま我慢して約15分歩く。少し体が温まる頃、周囲が少し明るくなり、6時35分やっと太陽が昇り始めた頃、ようやく体も温もり、高台から見る街の風景がきれいだった。しかし、やはり年寄りの冷や水だった。明日からはよくよく予報を確認しよう。

 今日は、そんな気候変化の激しい中、咲き始めた秋明菊。
Photo  シュウメイギク(秋明菊)。別名貴船菊、京都の貴船(キフネ)に多かった故の名。菊の名が付くが菊の仲間でなく、アネモネの仲間で、Japanese anemoneという。古い時代の中国からの帰化植物。花期8-10月。今年は開花が遅く今頃咲き始めた。此れも高気温だったせいかも。
Photo_2  同上の(接写)。この花も、花びらに見えるのはで、中心部の黄色部分が花(花冠が無い花で、単花被花という)。萼片が散った後、球状の花芯が残り、熟してわれると、ゴマ粒のような種子が付いた、真っ白な綿毛が現れる。これが風に乗って飛散し、繁殖する。

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2013年10月12日 (土)

争乱の戦国史58(室町Ⅲ18): 加賀一向一揆

 一向宗(浄土真宗、開祖は親鸞)第八世法王・蓮如(1414-1499)は、近畿、東海、北陸を中心に布教活動を展開。平安仏教や禅宗が貴族や武士の為の宗教であったのに対し、一向宗は庶民への布教に力点を置き、簡明な言葉での教えにより、地侍や農民中心の多くが門徒となった。蓮如が権力者との対立を嫌ったのに対し、その意に反し、信徒たちは各地の戦国大名の支配を嫌い、権力者との抗争をを繰り返すようになる。こうした一向門徒による組織が「一向一揆」と呼ばれ、北陸・東海を中心に広がった。「一揆」は一致団結した集合体、結合組織のことである。

 加賀では、越前吉崎に蓮如が布教拠点を置いたため、北陸一帯信徒は多く、その勢力が侮りがたく、守護の富樫正親弟の幸千代の内紛が続いていたが、そこに門徒の介入が起り、その勢力が顕著となってきた。幸千代が蓮如が異端派とする高田派門徒と組んだに対し、正親・朝倉軍蓮如援助を求めた結果、蓮如の本願寺派門徒も奮い立ち、蓮如の制止に拘わらず武装蜂起の準備が整った(1473年)。
F58  1474年(文明6)、決戦となり、両富樫というより、加賀の守護方と本願寺派門徒の正面衝突の様相を呈した。この時は門徒側が圧勝に終わったが、以降、加賀一国は守護勢力と門徒勢力の決戦場となった。翌年に入ると状況は一変し、門徒側正親との対立を明らかにし始める。
 1488年(長享2)には、門徒弾圧に動きはじめた正親に対し、国人と手を結んで、正親自害に追い込み、富樫一族から名目上の守護を据え門徒の武家と僧の合議制による統治を始めた。以後、加賀は織田信長によって制圧されるまで、100年近く、一向一揆による支配が続いた
 加賀の一向一揆の鎮静化を狙い、蓮如は吉崎を離れ、近畿へ移った。しかし、蓮如の死後も、本願寺派は北陸一帯を中心に拡大し、次第に政治色を強める。

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2013年10月11日 (金)

インカの財宝発見

 南米ペルーとボリビアの国境にある観光地「ティティカカ湖」の湖底で、約1500年前の金銀細工や陶器、インカ帝国時代(15~16世紀)の動物石像など計2,000点以上が見つかった。と、ベルギー調査団が発表したと報道されている。アンデス山中の標高約4,000mで、インカ以前ティワナクと呼ばれる文明があり、湖周辺で文明が発展した経緯をしる貴重な資料になるという。インカが1533年にスペインに征服されたとき、宝物を隠そうと湖底に沈めたという伝承にも合致している。何故高所に文明が発展したかが謎なのである。
 台風後の雨上り、公園の花壇に咲いていたアメジストセージを撮ってきた。
Photo  アメジストセージ。別名サルビア・レウカンサ或はメキシカンフッシュセージ。開花期が8-11月短日植物(夜が長くなると咲き始める植物)。中央アメリカ、メキシコに分布。遠目に花穂が紫に見える故の名前。日なた~明るい日陰でよく育つ。耐寒性は余りないという。
Photo_2  同上青紫色の額から白或は淡桃色の花が出るが、最近の園芸種ではこの写真のように花びらも紫色の品種ミッドナイトがある。これは薬草として用いられ、乾燥した生薬は「セージ薬」という。食べ過ぎ飲み過ぎに、熱湯に入れて飲用する。フランスでは煮えた赤ワインに入れ、疲労回復、強壮、健胃に用いるそうだ。

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2013年10月 9日 (水)

台風、難なく通過

 昨日は朝から、強い台風24号が夜半に北部九州を通過するとの予報が何度も流されたので、久しぶりに北部九州に上陸するであろうとの前提で、鉢植え類の整理やアンテナの確認など、準備をしていたが、夕方ごろまでほとんど風もなく雨も時々小雨が降る程度。漸く夜になっていざ本番と待ち構えたが、対馬海峡は半島寄りのコースで、わが家近辺は何もなく、夜半には通り抜けた。何もなく済んでよかったがテレビも余りにも騒ぎ過ぎの感をもった次第である。今日朝方少し雨が降ったが、9時ごろからは薄日が差してきたので、花の写真を撮って来た。それが下記の写真。
Photo  メランポディウム(Melampodium)。この花、公園の片隅で5月頃咲いていたが、梅雨明け頃消えて、10日ほど前から又花をつけ出した。花期は5-10月。メキシコ原産。近年出回っている花で、未だ和名がないキク科の花。マリーゴールドに代わる夏花として多用されているらしい。

Photo_2  接写の30cmほどの草丈故、小さい花壇にも適して人気がある様だ。高温多湿に強いが乾燥に弱いそうで、今夏の旱魃で一時消えたが、最近の雨で復帰した様だ。この花の中心部、ちょっと風変わりなのが見えますか。ひまわりを小さくした花という評価もある。

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2013年10月 8日 (火)

争乱の戦国史57(室町Ⅲ17): 山城の国一揆

 応仁・文明の乱後は、それまでの徳政を求めて武装蜂起する土一揆は下火となり、代わって各地に郡や国全体を巻き込むような一揆が起きている。
 1485年(文明17)の秋から冬にかけて、南山城では畠山政長軍と畠山義就(ヨシナリ)軍が長期の対陣を続けていた(二人の争いが応仁の乱の口火だった)。12月、これら長期滞陣に反発した山城国人たちは、土民の群集するなか集会をもち、結集して両軍に対し山城からの撤退要求した。国人とは在地領主で、諸荘園の荘官を勤め、政治的には畠山政長に与(クミ)する細川氏被官が多かった。
F57  しかし、この国一揆では、一味同心して両軍の撤退を求め、併せて荘園領主所領の回復、新関(軍費調達のための新しい関所)停止などを要求した。即ち本来の秩序回復を求めたもので、国衆たちは両軍から文書による保証を得て撤退を実現させた。
 翌年、国人たちは宇治の平等院に集会して「国中掟法」(秩序維持のための法)を定め、更に拡充させて、彼らは「惣国(自治国)」による山城支配を始めた。先ず惣国は、久世・綴喜(ツヅキ)・相楽の南山城三郡内の荘園について、年貢半分を自ら収納する内容の「半済令(ハンゼイレイ)」を出し両軍撤退に掛かった礼銭・諸費用に充てた
 又惣国は代表組織である「月行司」を置き、重要事項を国人たちの会合によって決定し、治安維持にも関わった

 このような体制は8年間も続いたが、本来「国中掟法」で禁止されていた年貢未進は増大し、惣国内部で利害の対立も生じて来た。後述する明応の政変で細川京兆家(惣領家)に協調した伊勢氏山城支配強化に乗り出し、国人たちも動揺・分裂が起り、守護伊勢氏の命令受け入れを決める。そして此れに反対した国衆排除のため、伊勢氏と結んだ大和領主・古市氏が南山城に入部するに及び、山城の国一揆は崩壊したという。

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2013年10月 7日 (月)

どうなるの?TPP関税撤廃

 バリ島でのTPP交渉閣僚会議は米大統領の不参加のまま、「大筋合意」で終わる共同声明を採択することとなった。しかし、日本のコメ・麦・牛豚肉・乳製品・砂糖の重要5項目の関税は必ず守ると意気込んでいた自民党は、このままでは決着が難しいと方針転換の声も出ている。即ち昨年末衆議院選挙時の公約違反となりかねず、全農協中央幹部会は強く反発している。何れにせよ、今年末には最終決着とすることを前提での今後の取組が注視されるところである
 そんな中、台風23号に続く24号は明後日列島に近づきそうだし、ここんところ中国からすごいPM2.5の飛来も予測されている。昨日から今日にかけ真夏並みの最高気温30~31℃の予想。でも、朝夕は矢張り秋めいて、長く咲き続けた黄花コスモスも終りそうなので掲載した。
Photo  キバナコスモス(黄花秋桜)。普通のコスモスはこれからだろうが、近年自宅庭に植えている家が少なくなったようだ。代わりにこの黄花が多い。メキシコ原産で、日本には大正時代に渡来。暑さに強く、7月―10月と花期は長く、病害虫に強いが、庭では場所をとりすぎか庭植えは少ない。
Photo_2  同上。別名キバナアキザクラ。最近の園芸種には八重種が多い。そして、園芸種にはサンセットなる赤花の八重が開発されている。但し、これは自家受粉しないので、種を採るなら、2株以上植える必要がある。

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2013年10月 6日 (日)

争乱の戦国史56(室町Ⅲ16): 国人領主・小早川氏の台頭

 応仁の乱も開戦5年経過した1472年正月(文明4)、山名持豊(宗全)から細川勝元に和平申し入れがあり、事実上停戦となった。それは、京都で戦う守護大名等の領国で、守護代や国人大名などの在地領主が急激に台頭する現象が起きたからである。土地を直接支配する領主が事実上の支配者として登場するようになる。この国が領主権を強化して、戦国大名へと成長した代表例として、小早川氏の場合を見よう。
 小早川氏は、後に毛利の一族として織豊時代に大大名に成長するが。その祖先は源頼朝時代の相模武士の土井実平(トイノサネヒラ)で、その子・遠平が平氏追討後、中国地方軍司令官的地位につき、更にその子の影平が安芸国沼田荘の地頭職を賜り、小早川姓を称した。その後同族繁栄しこの時代に及んだ。
F56  系図中、沼田本荘の茂平-雅平から敬平の惣領家を中心に庶家同族も繁栄し、海の戦国大名(海賊大名)としてデビューする。
 この内、庶家竹原小早川弘景の武力構成は、①「別分」という所領を独自に支配する同族連合体であるが、惣領弘景に直属するものとしては②「内の者」(竹原家の庶流の庶子)と③「若党」(百姓)④「中間」(百姓)があり、さらに⑤一般の家臣があった。農村の地侍や名字をもたない身分の低い者達である。
 鎌倉以来の分割相続による同族集団とは異なり、まだ「別分」を持つ「一家一族」(弘景の従兄弟兄弟も含む)がいたが、もはや竹原家の惣領から「扶持」「給分」を与えられる家臣となっており、武力編成の中心は血縁関係のない地侍・百姓に移っていたのである。
 竹原小早川家は、国人領主として地侍を直接、組織することで広い領地と海上支配権を確実に掌握し始めたのだ。こうした国人領主の成長力こそ、守護大名の形式的支配崩壊させ応仁・文明の乱を終結させる力になっていったのである。

 尚、海賊大将水軍兵力を持つ豪族をいい、古来名族の宗像氏松浦氏をはじめ、瀬戸内でも河野、多賀谷、小早川の有力豪族は皆海賊大将だった。
 又、後に毛利元就の三男が小早川家に養子に入り、毛利の一族となる。
 

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2013年10月 5日 (土)

縄文早期の猟犬

 佐賀市教育委員会が、同市の東名(ヒガシミョウ)遺跡の貝塚(縄文早期、約7000年前)から出土した犬骨の分析鑑定依頼していた、佐藤孝雄・慶大教授(動物考古学)が行った分析結果を発表した。それによると、ほぼ全身の骨が揃って入り、DNA解析で現在の柴犬などの遺伝子組み合わせと一致しており、犬の形質的特徴を縄文早期まで遡って議論できる最古の資料だという。又はの損傷具合から猟犬だった可能性が高かったという。今まで人類と共に生活した動物は馬と言われてきたが、犬も相当昔から飼育したようだ。本質的な人間の生活は縄文期からそう変わってないのかも。気温が下がり急に秋を感じている中に糸瓜がもう大きく成熟を始めたのを見た。

Photo  ヘチマ(糸瓜or天糸瓜)。インド原産。日本には江戸時代に渡来。実から繊維が得られることからイトウリと言われ、これが訛って「トウリ」となった。その「と」が「いろは」で、「へ」と「ち」の間にあることから「へちま」になったという。若い果実食用になり(沖縄)、成塾後は繊維が強く、たわしになる。
Photo_2  ヘチマの。花期7-10月。雌花と雄花に分かれ、同一株で受粉が可能(自和合性)。図鑑説明から、写真の左上のが雌花下二つは雄花のようだと推定(花の中心が異なる)。昔は成塾後、蔓を地上30㎝位で切り、容器に差し込んで置くと、ヘチマ水が取れたので、これを化粧水にしたり、飲み薬(咳止め、むくみ、利尿)や塗薬(あせも、ひび、あかぎれ)とした。

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2013年10月 3日 (木)

争乱の戦国史55(室町Ⅲ15): 後世に大影響の東山文化

  1473年(文明5)、将軍・義政は、応仁の乱での政治的混乱や妻・日野富子との確執に嫌気して、息子の義尚に将軍職を譲り、東山の山荘に隠棲する。しかも、子の義尚ともうまく行かず「親子確執」も公然の事実だった。それでとうとう、義政の隠棲所として東山山荘の造営に着手し、1843年に移り住んだのが慈照寺(銀閣寺)である。これは、義満の金閣寺造営にならったが、将軍家の経済基盤たる御料所(直轄地)は殆ど守護大名や国人に浸食され、この莫大な造営費を献納する大名はわずかであった。

F551 将軍家御料国の山城だけは将軍の命令も効き、山城国内に多くの荘園を持つ東寺などが、義政の賦課を受けて、各荘園に割り振っている。人夫も同様山城の公家や社寺領の荘園に割り振られた。このような次第で工事もおくれ、1482年着工1483年常御所完成で移り住み、観音殿銀閣の立柱上棟1489年(延徳元)で、1490年、義政死亡時も未だ未完成であった。銀閣寺 しかし、10年近い歳月をかけ山城・大和の民衆の犠牲の上に出来たこの山荘は多数の建造物を擁し、東山文化の粋を表わし、禅的幽玄さを深く表わした。

 義政はこの東山を芸術家たちのサロンとして開放し、彼らを保護したので、禅の思想に基づく「侘び・寂び」に満ちた幽玄な「東山文化が花開いた
 後に茶の湯の元となった村田珠光(ジュコウ)による「侘び茶」の創出、「立花」(生け花)の誕生、禅の精神を作庭に持ち込んだ世阿弥による「枯山水」様式の確立、以後の日本家屋の基礎となった「書院造」の完成など、後世の日本文化に大きな影響を与えた芸術がこの時期に完成された。絵画の世界では雪舟による日本的な水墨画が誕生したほか、大和絵の狩野派、土佐派などが独自の独自の画風を完成させた。
 これらの芸術文化は宗教的要素を含みながら、明らかに生活文化的なものであり、狂言浄瑠璃など民衆に支持された芸術もこの時期に誕生し発展したものである。今日的な食文化を含め、生活体系の原型は、よく江戸・元禄と言われるが、その根源はこの室町まで遡るといわれる

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2013年10月 2日 (水)

消費税8%決定

 

 消費増税が決定した。既定路線だから別に驚きではないし、欧米からも、日本の健全財政のために是非必要と要請されていたものだから、世界的にも当然と見られているだろう。
 だが、問題は国内経済である。現況でも円安に伴う諸物価の値上がり、異常気象による農産物の不作等による値上がり、等々で、市民の台所事情は苦しくなっている。今年から来年にかけ、国内経済は必ず落ち込む。国民の生活を守れるかどうかが安倍政権の勝負どころという事は重々ご承知の筈。ご奮闘を祈る

 世の中がジワリと動いている時、秋が少しずつ深まって、秋の花が咲いている。
Photo  ノコンギク(野紺菊)。この花、ヨメナ、ユウガキクと非常に似ており、花では区別がつかない。しかし、草丈0.5~1.0mで直立、花序が散房状花序、葉の形状(卵状長楕円形)、生育地が本州~九州という特徴に合致する処からノコンギクと断定した。が、栽培種のコンギクかも知れぬ。
Photo_2  (接写)。花径約2.5cmの頭花をつける。中央の管状花黄色で、周囲の舌状花淡紫色だが、色違い、変種等も多いらしい。古く奈良時代中国より渡来したと言われ、江戸時代に品種改良され多品種が作出された由。若葉は茹でて水にさらし和え物、お浸し、てんぷらで食用できる。この花は民家の小さな花壇にあったもの。

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