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2013年10月26日 (土)

争乱の戦国史63(室町Ⅳ03): 尼子氏の出現と西国

 尼子(アマゴ)氏は、北条早雲、斎藤道三らと並び、下克上で成り上がった戦国大名の典型と言われる一方、守護の権力に依存し、大内氏と同様、旧秩序から脱却できなかった大名とも評される。確かに本来近江出身の京極氏一族であった尼子氏の出雲国での活躍スタートは遅く1439年(永享11)に守護被官として確認できるのが最初だ。
 その後、応仁・文明年間に、守護・京極氏の守護代として急速に勢力を伸ばした。但し単に守護権力をそのまま奪取したのではなく、出雲国内の拠点を確実に押え、一国を着実に掌握した。中でも、応仁・文明の乱期、出雲の有力領主・松田氏に代り、需要な港湾・美保関を支配し、日本海海運に深く係わり始めた事に注目される。又幕府奉公衆で、将軍直属の武家だった、出雲西部の有力国人塩冶(エンヤ)氏は、守護権に対抗しうる存在だった。その塩冶氏家督継承者に尼子経久の三男を送りこむのに成功したのである。その結果、尼子氏は塩冶氏を滅ぼし、その根拠で交通の要衝・朝山郷一帯を獲得し、大きく勢力を伸ばした。
63  こうして、1508年10月(永正5)、出雲守護・京極政経が死去し、孫に家督が譲られた際、その譲り状と家伝の重代の文書は、守護代尼子氏と重臣多賀氏が預かった。1520年(永正17)頃までは守護は京極氏だったが、そして実質的守護権限尼子氏が握っていると認識され、次代の晴久の代1552年4月(天文21)には、将軍義輝より他の6ヶ国守護職補任と共に、出雲・隠岐の守護について公認された。大永年間(1521~28年)から、尼子氏は本格的な他国への進出を開始するが、それまでの間は、軍事的成功を背景に出雲の領国統治に専念した。(図:当時の勢力図、「戦国大名勢力変遷図(外川 淳著)」より)

 この時期、西国の他の大名は、同族争いの中で、混迷を深めていた。例えば、薩摩の名族・島津氏の場合でも、薩摩・大隅日向三ヶ国の守護職と島津氏家督とが15世紀初頭から一体化していたに関らず、一族が多くの庶家に分立し、16世紀初頭20年間、抗争を続けたのである。1526年(大永6)、相州家の貴久が本宗家勝久の養子になって、他の庶家を退け、守護の地位を確立、戦国大名家の基礎が形づくられた。

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