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2013年10月24日 (木)

争乱の戦国史62(室町Ⅳ02): 流浪の将軍と大内氏

 明応の政変に敗れ、細川政元の武将・上原元秀屋敷に幽閉された足利義稙(ヨシタネ)(義材)は、1493年6月(明応2)、暴風雨に紛れ逃れて、越中の畠山尚順(ヒサノブ)の領国に走った。そこで少人数ながら直臣の武家、公家を伴い形だけは政権の体をなし、各地の有力大名に上洛軍を催促し、又事実上の力になる勢力や諸寺、一向一揆首領などにも挙兵を呼び掛けた
 1498年(明応7)、細川政元と和睦の話が進んだが、和睦交渉は実らず、義稙は越前朝倉氏の一乗谷に入り、1年近く留まったが、結局上洛は果たせず、1500年(明応9)初頭に大内義興に迎えられ、周防に入る。大内義興は畠山氏とは血縁があり、又義稙とも人間関係が深く、大内氏を頼ったのは当然だった。
 唯、この時期、大内氏は守護国の筑前・豊前情勢が厳しく、その地をめぐり対立する少弐氏、大友氏は敵対する義澄(11代将軍)方について攻勢をかけて来た。従って1508年(永正15)、義稙を擁して入京した大内義興はさいごくの雄として大きな勢力を持ったものの、国元不安は石見・安芸方面でも同様で、結局義興は1518年(永正5)下国せざるを得なかった。

62_2  前述のとおり、義稙1500年以来、8年間周防に留まった後、1508年大内義興と共に入京し、管領・細川高国に擁立され、同年7月将軍再任となった。
 高国・義稙政権は入京当初は不安定で、義澄・細川澄元方に敗退する戦いが何度かあったが、京都船岡山の合戦劇的勝利を収め、義稙・細川高国・大内義興連合政権が一転安定を得る。ところが1513年3月(永正10)、義澄の子(義晴)と義稙政権が「御合体」という和睦をなした。これは子のいない義稙の次の将軍候補を手中に置く高国の策であったとも言われる。(大内氏上洛と九州中国勢力図
 その5年後(永正15)、大内義興に分国への帰国を機に、政権内の力関係は崩壊する。三好之長(ユキナガ)を中心とする細川澄元支持の四国衆の軍事行動が激化し、義稙は一時上洛の澄元・之長を受入れたのである。その後、澄元らを逐って高国が再び京都に復帰するが、政権内部、義稙・高国に生じた隙間は戻らなかった。そして1518年(永正15)、高国は足利義晴を12代将軍として擁立し、1521年(大永元)義稙は京を秘かに脱出し再び戻ることはなかった。

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