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2013年10月18日 (金)

争乱の戦国史60(室町Ⅲ20): 北条早雲の登場

 北条早雲の出自は謎とされてきたが、現在は次の説が正しいとなっている。即ち、「早雲は、室町幕府政所執事と言う重職を世襲した名家・伊勢氏の一門で、父は八代将軍・義政の申次(取次役)・盛定だった。そして、その子・伊勢新九郎盛時も、九代将軍義尚の申次で、側近く仕える身だった」という。この伊勢盛時が後の北条早雲庵宗瑞(出家後の号)である。
 早雲は若いとき、将軍・義政の弟・義視に仕え、応仁の乱で義視に従い、一時伊勢に下る。が、その後京に戻った義視には従わず浪人と成り、後将軍義尚の近江出兵前、1487年5月駿河に下っている。早雲の妹・北川殿が今川義忠に嫁いだのも将軍との関係からと言われ、北川殿の子・今川氏親が甥となる。
 この頃(1487年)、堀越公方(足利政知:10代将軍義澄の父)を助ける任にあった堀越(伊豆国)の隣国・駿河の今川氏が大きな内紛に直面していた。今川氏親が叔父・伊勢盛時と共に今川(小鹿)範満を討ったのである。氏親の父・義忠は駿河守護で、応仁の乱中遠江守護職を自力奪回のため遠江に出兵、東幕府方の支持もなく、1476年(文明8)に戦死。その後、義忠の従兄弟・小鹿範満が、扇谷上杉家の家宰・太田道灌らの後援を得て実権を握っていた。
F60  ところが、太田道灌が主・上杉定正に殺されたことから事態が急変、氏親らが範満殺害に至った。そこで、伊勢盛時、すなわち北条早雲は範満を打倒し、甥の氏親らが当主に据えた。この功績で、早雲は沼津の興国寺城主となった。
 混乱に乗じ領地拡大を図った早雲の次の目標は堀越公方の所在地伊豆だった。堀越公方・政知は潤童子を跡継ぎとし、兄弟での将軍と鎌倉公方への就任を図った。だが、義尚後の将軍は我が子・清晃でなく、義視の子・義材だった。そして、政知が1491年(延徳元)没し、政知後継のから外された庶子の茶々丸が潤童子を殺害、自ら堀越公方となった。(は当時の関東勢力図
 早雲がその茶々丸に対し兵を起こしたのは明応の変の直後(1492年)で、明応の変で将軍となった義澄(清晃)と母と子(潤童子)を討った仇の名義を着せ、早雲は伊豆に攻め入った。そして茶々丸を敗死させ、伊豆征服に成功して一国一城の主となったのである。

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