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2013年10月14日 (月)

争乱の戦国史59(室町Ⅲ19): 明応の政変

 1490年(延徳元)将軍に就いた足利義材(ヨシキ)(義植(ヨシタネ))は、1492年9月、近江中郡や北部の高頼党を討ち、近江一国をほぼ平定し、京都に凱旋した。
 その勢いに乗じ、1493年2月(明応2)河内征討の軍を起す。当時応仁の乱以来の両畠山(義就(西軍)と政長(東軍))の抗争が続いていたからである。その年、義就(ヨシナリ)が死に、第2子の義豊は河内・誉田(ホンダ)城に立て籠もり仇敵の政長方に対した。一方の政長幕府の宿将として、その勢力は他をはるかに圧しており、対抗できるのは若い細川政元(京兆家勝元の子)がいるだけであった。
 将軍・義材は、政長の勧めるままに、義就の死を好機とばかり、政長とそのその子・尚順、斯波義寛、赤松政則らを従え、誉田城攻略に出京した。
 これは将軍自ら政長に肩入れし、義就の後を継いだ子・基家と結びつく動きを見せる細川京兆家(政元)を牽制しようとしたものと言われる。当然、政元は義材に従わず、京に残留した。
F59_3  そして1493年4月(明応4)、クーデターが決行された。畠山政長の専横に不満であり、且つ義材の将軍職襲職も快く思っていなかった細川政元は義材の対抗馬として、堀越公方政知の子・天竜寺香厳院清晃(キョウゴウインセイコウ)の擁立を決意した。その背後には畠山義就・義豊に味方する越智家英や古市澄胤らが、義材に反旗をひるがえす決意を迫る策動があった。 それとは知らぬ将軍義材は畠山義豊の軍兵と戦っていた。細川政元は両軍の形勢を聞きながら、4月22日ついに清晃を遊初軒に迎え入れ、翌日擁立を上奏した。更に、閏4月には政元の被官らが、河内国正覚寺陣に義材を攻め、畠山政長以下、有力家臣を切腹させると共に、義材を上原邸に幽閉した。清晃は義高(義澄)と改名し。翌年(1494年)12月には正式に11代将軍に就位した。このクーデターにより、将軍の権威は地に落ちたが、一方政元も南山城の国人・地侍や大和興福寺の国侍に支えられての権勢ではあった。これが明応の政変である。但し、後に幽閉中の義材が越中に脱出し、御座所を構え、能登畠山氏、越前朝倉氏、越後上杉ら大名が参じ、御内書を発したので、二人の将軍が現出し、幕府は再び分裂する事になる。

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