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2013年10月12日 (土)

争乱の戦国史58(室町Ⅲ18): 加賀一向一揆

 一向宗(浄土真宗、開祖は親鸞)第八世法王・蓮如(1414-1499)は、近畿、東海、北陸を中心に布教活動を展開。平安仏教や禅宗が貴族や武士の為の宗教であったのに対し、一向宗は庶民への布教に力点を置き、簡明な言葉での教えにより、地侍や農民中心の多くが門徒となった。蓮如が権力者との対立を嫌ったのに対し、その意に反し、信徒たちは各地の戦国大名の支配を嫌い、権力者との抗争をを繰り返すようになる。こうした一向門徒による組織が「一向一揆」と呼ばれ、北陸・東海を中心に広がった。「一揆」は一致団結した集合体、結合組織のことである。

 加賀では、越前吉崎に蓮如が布教拠点を置いたため、北陸一帯信徒は多く、その勢力が侮りがたく、守護の富樫正親弟の幸千代の内紛が続いていたが、そこに門徒の介入が起り、その勢力が顕著となってきた。幸千代が蓮如が異端派とする高田派門徒と組んだに対し、正親・朝倉軍蓮如援助を求めた結果、蓮如の本願寺派門徒も奮い立ち、蓮如の制止に拘わらず武装蜂起の準備が整った(1473年)。
F58  1474年(文明6)、決戦となり、両富樫というより、加賀の守護方と本願寺派門徒の正面衝突の様相を呈した。この時は門徒側が圧勝に終わったが、以降、加賀一国は守護勢力と門徒勢力の決戦場となった。翌年に入ると状況は一変し、門徒側正親との対立を明らかにし始める。
 1488年(長享2)には、門徒弾圧に動きはじめた正親に対し、国人と手を結んで、正親自害に追い込み、富樫一族から名目上の守護を据え門徒の武家と僧の合議制による統治を始めた。以後、加賀は織田信長によって制圧されるまで、100年近く、一向一揆による支配が続いた
 加賀の一向一揆の鎮静化を狙い、蓮如は吉崎を離れ、近畿へ移った。しかし、蓮如の死後も、本願寺派は北陸一帯を中心に拡大し、次第に政治色を強める。

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