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2013年9月

2013年9月30日 (月)

大阪都構想に暗雲か

 

大阪市と堺市の両政令都市を解体して、大阪府と統合再編し、大阪都と10程度の特別区に再編するというのが、橋本大阪市長率いる「維新の会」の構想であり、橋本市長の持論である。が、昨日の堺市長選では、無所属・現市長の竹山氏(自民支持、民主推薦)が当選し、大阪維新の会新人の西林氏は敗れた。
 選挙の強さが力の源泉と言われてきた維新が地元で敗れた衝撃は大きい。7月参院選で従軍慰安婦発言で失速した橋本氏にとって、堺市長選で勝利する事が必須だった筈で、この敗北により、今までの維新の先行きを懸念する向きも多く、もはや橋本氏個人の斬新な考え、積極的な行動力に魅せられた橋本ブームにも翳りが見え始めたのか。自民の出方が注目される。今日は今頃咲いている花虎の尾を紹介

Photo ハナトラノオ(花虎の尾)。別名角虎の尾。北米原産で、大正時代に渡来。花期は7-10月。濃い色の花が多い今頃では、薄い青紫色の涼しげな花はいいものだ。地下茎で増える繁殖力旺盛な花で、半日陰でも育ち、耐寒性もある。余り手のかからぬ花と言われる。Photo_2
 接写の。花色は白、濃淡ピンク、青紫色などがある。花穂は細長い四角錐で、四方に向かって規則正しく並んで咲く。一つ一つの花をよくみるとユニークな形で何か動物の顔を連想させる。この花は手入れの行き届かぬ雑草混じりの花壇に咲いていたもの。

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2013年9月29日 (日)

争乱の戦国史54 (室町Ⅲ14): 室町幕府の変貌

 応仁・文明の乱後、東西幕府の西幕府が消滅して、各守護や国人は幕府意向とは無関係に進む各地域への覇権確立への戦いに下って行き、乱時の守護連合も消滅した。
 乱後の幕府は将軍と近臣中心のものに性格を変える。有力守護家では唯一在京の細川氏の惣領家が、畿内の領国化を図り乍ら幕府・将軍との関係を強めた。細川氏はいくつかに分かれ、庶家(嫡流外)も阿波・讃岐・和泉などの守護職を代々世襲していた。管領となる惣領家は右京大夫の官職名により京兆家と呼ばれた。
 一方同じ管領家の畠山氏は勢力を失っていた。そして、将軍足利義政夫人・日野富子、sその兄・日野勝光が管領に代わる力を持ち始めた

 1472年(文明5)将軍になった義尚は当初義政のもとでの施政であったが、やがて自立し、長享年間の近江守護六角高瀬征討の近江布陣では結城兄弟、大館、二階堂などの評定衆と呼ばれる側近が決済に影響した。これら評定衆は義尚との親近関係で決まったという。
F54  次の将軍義材(義稙)の代には別の側近衆が登場し、将軍義晴時代の内談衆も同様な存在である。
 このような戦国期、室町幕府で重要な意味を持つ評定衆・内談衆などは家柄に拘わらず、将軍が最も信頼のおける人物を配し、新たな職制と役割を与えたものだと言われる。
 この事から、幕府が将軍と将軍に結びつく特定の集団によって動かされるようになったことを意味している。しかしそれは伝統的家格を持つ者達で構成していた幕府に比し、より分裂しやすいものであった。

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2013年9月28日 (土)

コメ作況「やや良」

 農水省が発表した今年度産米の作況指数は、2年連続で「やや良」作況指数平年100に対し102)となった。今年は集中豪雨や台風の被害もあり、落ち込むのではと思っていたが、何よりの結果だ。但し、刈取り寸前に冠水し、稲が駄目になった農家も多いはずであり、稲作以外、果樹園芸や野菜のダメージも大きかった筈である。特にコメ作以外に農業発展を期して果物、野菜などの大規模農業に取り組んでおられる方々の被害は大変だろうと思う。今後の日本農業を背負う人達のチャレンジを援護・支援する方策の確立が望まれる。
 前回に続き、朝のうちの涼しさに咲く、別種の露草も花を付けていたので紹介。
Photo マルバツユクサ(丸葉露草)。熱帯アジアを原産としたツユクサ属の植物。露草に似ているが小さい花丸味があり(名前の由来)逆にやや大きい(長3-7cm幅2-4cm)。現在、アフリカ、豪州を中心に28ヵ国に分布。日本では関東以西-南西諸島に分布。写真は学校外側の花壇のもの。
Photo_2 同上の。苞(花の基部の葉)の中に花を付け苞の外へ花柄を伸ばして、2個の花を付ける。一つは両性花で、あと一つが雄花)。花径は1cm未満の小さなもの。苞の中に花の数だけ果実をつけ、2-5個の種子を持つ。花期は7-10月。

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2013年9月27日 (金)

争乱の戦国史53 (室町Ⅲ13): 安東氏の東北支配と蝦夷

 鎌倉時代には、陸奥の十三湊を本拠地とする豪族・安東氏が幕府の東夷成敗権(蝦夷支配権)を執行する蝦夷管領に任命され、津軽海峡をはさむ奥羽と渡島(オシマ)(道南)のエゾを支配していた。このエゾはアイヌ人を意味している。
 室町時代になると安東貞季の嫡男・盛季を祖とする十三湊の下国家が安東氏の嫡流として蝦夷管領の系譜を引く日の本将軍と称した。又次男・鹿季14世紀末、出羽の秋田湊を討って湊家を興し、もう一つの蝦夷支配機構である秋田城介を世襲した。
F53_2 安東氏は代々日本海の交易を支配し富を築いた。室町初期の十三湊には越前・若狭と、蝦夷からの船が群集し、繁栄していた。1436年-1446年にかけ安東康季は若狭の羽賀寺を再興したが、八戸・南部氏に十三湊を攻められ、蝦夷・松前に脱出する状況下での事を見れば、安東氏が日本海交易の支配権と日の本将軍(奥羽地方全般の管領)の威信をかけた一大事業であった。但し、安東氏は松前から出羽・檜山に復帰するが、十三湊回復はならなかった
 南北朝時代(1336-1392年)、道南の昆布・蝦夷鮭が若狭に運ばれ、全盛期には年3回商船が道南に来航し、15世紀になると館主と呼ばれる在地土豪が成長した。松前に避難した安東氏は1456年上の国、松前、下の国に三守護を設置しこれら館主層の被官(家臣)化を図った。

 1456年、アイヌ人が倭人の鍛冶に注文した刀剣の価格を巡り口論となりアイヌが殺害された事件から、東部のアイヌ酋長・コシャマインが抗議に立ち上がり、倭人の交易圏内の全アイヌが蜂起する大規模な闘争に発展した(コシャマインの反乱)。従来、日本人とアイヌの民族闘争と言うのが通説だったが、今は日本人の交易を巡る蝦夷間の戦いとされている。
 コシャマインの戦い鎮定に活躍した武田信広上の国守護の娘婿に入り、蠣崎氏を相続1514年檜山氏から蝦夷の管理を委ねられ、夷役(エゾヤク)(日本商船から年俸を徴取し、蝦夷の長官たちに分配)を設けた。日本人との交易権を手中に収めた渡島の蠣崎氏は館主層を服属させ道南の戦国大名に成長した。

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2013年9月26日 (木)

月面探査1番乗り目指す日本チーム・ハクト

 福島汚染水処理や北海道JR線路等、腹立たしい話の中で、心温まる楽しい話。
 今、米国の財団がグーグルと企画した「グーグル・ルナ・エックスプライズ」なる賞金レース15年末までに、国の手を借らずに、探査機を月へ送り込み月面を500m移動してハイビジョン動画を地球の送信する等の課題を最初にこなしたチームに賞金2000万㌦(約20億円)贈る。と、いうもの。これに挑戦する日本チームが「ハクト」。月に因んで因幡の白ウサギからの名前。現在世界で22チームが参加。ハクトの開発の中心は「はやぶさ計画」に参加の吉田和哉・東北大教授以下20名のチーム
 去る9月5日、月面移動車の試作機で、性能確認の広開実験をした。が、車体の一部が砂に食い込み、3回に分けての走行だった。今後さらに問題点を洗い出し一番乗りを目指すと頑張っている。心から声援を送る次第である
 ようやく秋めいて、ツユクサミッキーマウスを連想させる青い花を付けている。
Photo ツユクサ(露草)。露が降り始める頃咲く故の名前かと思っていたら、朝咲いた花が昼萎むのが露に共通している故の名だという。その他ツキクサ(月草、着草)、青花など多種の名。この花は夜中は閉じており明け方開く(曇天の早朝は閉じていた)。東アジア、日本全土に広く分布。
Photo_2 (接写)蕚片3枚で白色。花弁3枚あるが、2枚が大きく青色、花茎は1-1.5cm、残り1枚は披針形で長さ0.5mm。雄しべは2本。花後黒褐色の種子が付く。面白いのは昆虫の訪問がなくとも、花後に雌しべと2本の雄しべくるくる巻いて縮んで柱頭と葯とが接触して自家受粉する

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2013年9月24日 (火)

いつまで続くこの暑さ

 明後日から涼しくなり最高気温も28℃以下になるでしょう。と、いう予報ここ4日続いたが、最高気温は毎日31、2℃が続いている。お陰で夏バテ気味で、なんとなく気怠く、何もやる気がしない。その上好天気で、雲は殆どなく、空気が澄んでいるせいか、外で陽射しを浴びると皮膚が痛いほどの強い感じである。毎回秋の花が元気に咲いていると報じてきたが、その実、殆どが陽射しや乾燥に強い花ばかりだ。今週こそ少しは涼しくなってくれることを祈る次第。そんな環境の中で、小生が始めて見た花を、今日は紹介しよう。
Photo ホシアサガオ(星朝顔)。朝顔と同じサツマイモ属だが、昼間も咲いている。北米原産。西日本第二次大戦後に、帰化した植物という。日当たりの良い草地や河原に生え、つるで絡んで繁茂する。この写真は溜池のフェンスに絡み沢山の花を付けているもの。葉は卵円形で朝顔並みだが、花はすごく小さい
Photo_2 その。花は茎の先に集まって咲き、淡紅色の瀘斗形で、筒部の内面濃紅紫色花茎が1.5~2.0cm位の小っさな可愛い花。花の縁が5裂し、先が尖がり星形成っている処が名の由来。勿論野生だが、通り道に面しており、通行人を楽しませているようだ。花期7-10月。

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2013年9月23日 (月)

争乱の戦国史52 (室町Ⅲ12): 琉球王国(第2王朝)の隆盛

 1429年(永享元)尚巴志が統一王国樹立後、東アジヤでの代表的な貿易勢力を築きつつあった琉球だが、尚巴志後の3代から5代まで、夫々3~4年と短かった。6代目を巡って王子の志魯(シロ)と叔父の布里が争って(志魯・布里の乱)、首里城は全焼し、両者とも死亡した。弟の尚泰久が6代目王位に就いたが、2年後(1458年)に有力配下の反乱が発生。勝練城按司・阿麻和利が、中城城を攻略し按司・護佐丸を倒し、更に首里城を攻めたが、首里軍に滅ぼされた護佐丸・阿佐和利の乱)。更に7代尚徳が病死すると、予々不満を持つ勢力が、王子や王族・近親者を殺害し関係者は首里城から追放した。首里城の主となった金丸は即位して尚円となる。第一王朝とは何の血縁もない第2王朝の誕生である。

 1472年尚円は中国皇帝に「琉球国中山王」として冊封された。第2王朝は琉球3山の盟主たる地位を確古としたが、自立性を保持する按司勢力は温存された。その按司層の力を減殺し、王権基盤を確立・安定化し、王位を絶対的存在までたかめたのが第2王朝3代の尚真である。治世は在位50年に及び、王権の伸長、按司対策、対外関係の面で、王権基盤を刷新する決定的な転機となった。
 先ず、按司対策は、按司を首里に移住させ、現地には按司掟という役人を派遣し管理させたのである。そして先島等の離島支配を強化した。又官職・位階を整備し支配体制を整え、軍備強化も行い、王国経営の行政機関として、首里王府を拡充強化し、王の執行機関とした。
F52 尚、琉球王国が隆盛できた最大の要因は、その朝貢貿易による。中国が冊封関係でアジアを支配したが、中国は「海禁政策」(鎖国政策)をとり、貿易制限したため、アジア各国に中国製品が不足した。又朝貢回数を厳しく制限した中では琉球は群を抜き中国との交易が多かった(安南やシャムの2倍、日本の9倍)。
 そこで琉球は、アジア各地の物品を集め中国へ運び、中国の物品を各国へもたらす、という運搬するのみの「中継貿易」により、莫大な利益を得たのである。但し、16世紀に入り「後期倭寇」と称される海賊的行為も行う集団の跳梁跋扈する頃には衰えてくる

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2013年9月22日 (日)

JR北海道、脱線はレール幅の拡大?

 最近北海道でのJR脱線事故が多いが、その原因はレール幅が拡大していた事によるのでないかと、国交省が本社並びに函館支社の特別保安監査(立ち入り検査)を始めたという。JR北海道では、年2回の定期検査で昨年10月査で規格より20今年6月では25拡大している事を確認した。が、19㍉以内は許容範囲とされており、それを超えると補修が必要との規格があるに拘わらず、函館は補修していなかった。脱線の危険が生まれる上限値は理論上43だそうだが、事故当時の状況は不明。いずれにせよ、現在構内での広がりが確認されているのが9か所あるという。大事故に至る前での発見を幸いとし、早急な対策を講じてほしいものだ。もう秋だというのに相変わらず30℃の真夏日が続き、雨が降らない。でも、草花は秋の花が咲き誇っているので、今日はつるぼ
Photo ツルボ(蔓穂)。ユリ科ツルボ属。語源は蔓飯粒穂(ツルイイボ)。茎頂に米粒に似た花穂を付ける事からの名前。別名サンダイガサ(参内傘)、公家が宮中に参内するとき差しかけた傘を畳んだ形に似る処から。中国、半島に分布し、日本では北海道から、南西諸島の山野に生育。初秋に咲き始める。
Photo_2 ツルボの。初秋に30cm位の花茎を出して、総状花序を付ける。花は密に付き淡紅紫色で、花被片は6個、雄しべも6個。地下には2-3cmの鱗茎があり、粉にしてにしてたべられる。花の少ない頃から、彼岸花に先立ち咲き始め、清々しい花色が美しい。

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2013年9月21日 (土)

争乱の戦国史51 (室町Ⅲ11): 琉球王朝の統一(第一次王朝)

 古代の沖縄・奄美の人々は日本祖語(日本語の原型)を用い、本土と共通の文化的基盤から出発している。だが、弥生時代以降は言葉も分化し、文化流通は途絶えて(弥生土器や古墳は全く存在せず)、平安時代まで、奄美地域以南はヤマト国の統治領域以外の化外の地であり、力の及ばぬ僻遠の地だった。
 ところが、11世紀(鎌倉初期)になると沖縄の島々の歴史は激変する。具体的には、穀物(米・麦など)栽培の農業開始、鉄製利器使用開始、徳之島産須恵器中国製遺物の増、琉球全体にグスク(城)が登場、各地に按司(首長層)が政治的支配、水田開発などだ。
 この頃、中国では、漢族の国家・南宋の時代となり、それが海を越え琉球に影響したと見られ、日本の影響奄美には及び始め、沖縄・先島・奄美の3地域が歴史上初めて独自の地域即ち琉球を形成し始めた

 グスク登場から300年を経過し、14世紀になると、この共同体間の対立や抗争を得経て、按司達は強大となり大きな勢力圏を形成した。14世紀後半中頃に本島では、北山、中山、南山の3王国が鼎立した。
F51 中国は宋が滅び、漢族の明朝を樹立。皇帝・洪武帝はアジア諸国にその旨伝達の使者を派遣し、琉球には浦添城の中山王・察度(サット)の元へ1369年楊載が遣わされた。1372年琉球は新生中国の朝貢国となり、1396年、察度没後、1404年世子の武寧が琉球国中山王に封じられ、初の冊封を受けた。
 その2年後(1406年)、沖縄南部・佐敷上城の按司・思紹とその子の尚巴志は当時最強であった浦添城を攻略し、中山の覇者・武寧を滅ぼしその勢力圏を手に入れた。そして15世紀初頭首里城の大規模な工事を行い、中山の拠点を首里城に移転し、北谷から読谷山に及ぶ広大な地域を従える存在となった。
 浦添攻略の10年後(1416)、兵を送り「北山」の今帰仁城を攻め、北山王・攀(ハン)安知を滅ぼした。更にその13年後(1429)、島尻大理城を攻撃し、南山王・他魯毎(タロミー)を滅ぼし、遂に沖縄本島を中心とする地域の政治的統一に成功し、首里城を拠点とする「琉球王国」が誕生したのである

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2013年9月19日 (木)

一挙に咲いた彼岸花

 暑い日が続き真夏の気分だが、彼岸も近いので、今日は一挙に咲いた彼岸花。
Photo ヒガンバナ(彼岸花)。別名リコリス(学名)、曼珠沙華。彼岸には必ず咲く律儀な花である。但し、彼岸花と呼ぶのはこの赤い花だけだそうだ。この花は仏縁の花で、墓地などに多い関係もあってか、普通のには植えるのは敬遠される。尚、全草毒を持つ。

Photo_2 アルビフロラ。彼岸花の中の白い花を付ける園芸品種シロバナマンジュシャゲ、とも呼ばれる。彼岸花より一回り大きな花。ショウキズイセンとの交配種と云われるが、中国産の自然雑種とも言われ、シロバナ系は人気種との事で最近庭植えが多い。

Photo_3 ショウキラン黄色い彼岸花でショウキズイセンとも云う。花弁が波っているのが特徴。これも彼岸花より一回り大きい園芸種花期がやや遅い品種。花持ちがいいので切り花として人気あるとか。黄系統にはオオスミ、アケボノなどの品種があるが何れも鹿児島原産。 

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2013年9月18日 (水)

争乱の戦国史50 (室町Ⅲ10): 応仁乱後Ⅲ 神威減衰と武威興隆

 応仁の乱後、幕府機能が崩壊し始めると共に、社会変化は商人や職人、農民、宗教者など、古い世界観の中で暮らしていた人々の経営戦略の転換を迫った。
 その典型例が京都近郊の油座・「大山崎神人である。この座は鎌倉時代より関銭(関所通行税)免除などの特権を与えられ商圏を拡大し、将軍も代々彼らを保護し、将軍代替りには安堵状を下賜し、神人(座)としては破格の待遇だった。その商圏は尾張以西、近畿、備前、阿波・伊予など10ヶ国の製油・販売独占権を持つ大規模なもので、石清水八幡宮を本所とした。勿論、手強いライバルもいて、幾度も商圏を脅かされたが、訴訟では必ず勝利判決を得た。それは石清水八幡宮の放生会に嗷訴(ゴウソ)を起し、無条件に勝訴判決を得たからである。
F50 しかし、将軍義政は1451年(宝徳3)に山門(比叡山)が起した嗷訴を棄却し、以降特別扱いされなくなった。以前ほど神を畏怖せず神威が失墜したからだ
 この変化は、1463年(寬正4)における南都七大寺が幕府の裁許遅延に抗議しての閉門嗷訴にも、義政が無反応であった事にも現れている。むしろ徳政一揆の方に脅威を感じていたのである。神よりも武を恐れたのである
 ここに彼らは経営戦略の転換を図り、これまでの戦闘能力を生かせる合戦の戦功による大名の保護を勝取る戦略に出た。大山崎が京の西玄関口の軍事的要衝であったことから、応仁の乱では東軍に属し、積極的に西軍と戦っている。
 だが結局彼らは、その広大な商圏は守り得ず、精々京都市場での他製品の排斥が精一杯となった。そして16世紀には京都市場の死守もかなわず、「油場銭」なる通行税の徴収権者に堕ちて行き、やがて姿を消した。当に室町幕府と軌を一にして滅びたのである。
 やはり、応仁・文明の乱はそれまでの社会構造を大きく変化させ、古代的国家構造の延長線上の社会構造から抜け出したという。日本の歴史を二つに分かつほどの大きなエポックだったと評される所以である。

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2013年9月17日 (火)

特別警報!台風18号の大災害

 昨日の18号台風の東上に伴い、気象庁は既に午前5時5分に京都、滋賀、福井に対し、大雨特別警報を発表していた。が、この警報への対応に一般市民はなじんでいなかった。その上、京都・嵐山の増水はあっという間の急激な増水だったようだ。又福知山市の洪水にしても、広範囲に亘る床上浸水となり、古老たちが初めての経験と云う。これ以外各地でも多くの「初めての」と表現される水害が多かった。
 最近の「ゲリラ豪雨」は気象上の悪条件の重なりと解説されるが、「悪条件の重なり」がしょっちゅう起こり得る地球環境になっていることと、気象予報を甘く見ないことを心すべきではないだろうか。 幸いにも当地福岡は雨も降らず秋晴れが続いて、秋の花々が咲いている。
Photo ニラ(韮)。古語で加美良(古事記)、久君美良(万葉集)、弥良(正倉院文書)の様にミラと呼ばれていた。平安時代頃から徐々に「ニラ」となったそうだ。中国西部が原産地。日本は本州から九州には野生している。独特の匂いがあり、禅宗の精進料理では五葷の一つとして忌避されている。
Photo_2 (接写)。花期8-10月。散形花序で小さな花が20-40個つく。花弁3枚3枚ついて、花弁6枚に見える。匂の原因は、ニンニクと同じアリシンなど硫黄化合物を含む故。但しカルシウム、ビタミンA,C,B1,B2が多く強壮効果がある。中華料理には欠かせず、食用需要は多い。
お知らせ:小生の、ホームページ「人生悠々」は12月閉鎖としたため、従来のアドレスは無効になりましたので、11月末までご覧頂く場合のURLは   「http://habe.on.coocan.jp/」 でご覧ください。ブログは変りません

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2013年9月16日 (月)

争乱の戦国史49 (室町Ⅲ09): 応仁乱後Ⅱ 戦国大名出現

 幕府支配から自立し始めた守護大名はその殆どが下国し、分国含めた自国領域の保全・拡大に努める一方、実力のある守護代や国人と称せらる地元有力武士らと調和を図る必要が出てきた。勿論守護や国人の方が勝り、守護大名とって代わる者も現れる。下剋上による戦国大名の出現である
 今川・武田・大友・島津などの戦国大名化に成功した守護の多くは、守護在京原則の対象地域外の関東九州地方に領国を持つ守護達なのだ。守護は将軍の膝下で将軍や天皇を守るのが任務であり、幕府の重職に就き、将軍や天皇の権威を以て、自分の国を支配した。従って実務は守護代に任せたのである。
F49_3 従って応仁・文明の乱中の守護に代わって分国での戦闘を指揮していた守護代或いは従戦した国人が被官達の信望を集め、乱後に守護が下国したときには信頼されず、被官達に見放された場合も多い。この様な守護代には越前・朝倉孝景や美濃・斎藤妙椿がいる。地方武士たちは貴種よりも真の実力者を望んだ。
 複数の分国を飛地にもった有力大名は下国する場合、いずれかは捨てざるを得なかった。大内政弘の場合は周防・長門・筑前・豊前と纏まった領域を保有したが、京極正高の如く出雲・隠岐・飛騨・近江と離れた分国を抱えた大名はどこかの分国を守れば、他は喪失もせざるを得なかった。
 畠山尚慶(政長の子)の場合は河内・紀伊・越中の守護だったが、河内・紀伊確保し、越中は越後守護代・長尾為景に守護領からの年貢納入を請け負わせるという支配方式を採ったという。守護が在国しない諸国では分国を失わざるを得なかった

 戦国大名は中央権力とは一線画して領国経営を行い、領国内の治政・紛争調停などは夫々領国ごとに定めた法(分国法)による裁定を行った。又軍事上の組織は寄親(上級家臣)と称する譜代衆(元からの家臣)、国衆(後に帰属の家臣)、一族衆(大名の血縁者)の下に、寄子と称する足軽(応仁の乱後出現した下級武士)や軍役衆(年貢免除の半農半兵)を廃したのが一般的だった。尚、国人衆は城下に集住させ、農村は安全保障見返りに軍役賦課や差出検地を実施した。

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2013年9月15日 (日)

萩がきれいに咲かなかった

 
Photo_7(1,2)ミヤギノハギ(宮城の萩)。本来、秋の彼岸ともなれば、萩の花が最盛期で綺麗に咲いて居る筈。が、毎年見ている萩が今年は写真(1,2)の通り。猛暑に加え、咲き始めると雨が続き、散る、そんなことを繰り返し、漸く咲いたのがこの状態。1:花(接写)2:開花状態
1 ハギ属の総称で、通常は山野に自生するのはヤマハギ。そして庭園に植わっているのはミヤギノハギが多い。ハギは冬枯れし、毎年春に新芽を出すことから「生え芽」となり次第に「ハギ」の呼称になった由。
Photo_4(3,4):シラハギ(白萩)。ミヤギノハギの変種と云われる白萩。(と推定しているが違うかも・・・。シロバナハギとも言う。余り一般的でないが、これは近くの学校の傾斜面で咲いていたもの。3:花(接写)、4:花付状態。まだ若い木で、1本だけ咲いているので、何かによって運ばれた来たものと推定する。
 
Photo_5 ハギと言えば、彼岸でもありオハギを連想するが、オハギは初秋、まだ若い小豆使うので柔らかく粒餡とする。対してボタモチは春の彼岸に供えられるが、この頃の小豆は堅いのでつぶして漉し餡にしたものを使うのである。 

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2013年9月13日 (金)

争乱の戦国史48(室町Ⅲ08): 応仁乱後Ⅰ 守護の直支配

 1477年(文明9)まで続いた応仁の乱は、室町幕府の支配体制を大きく揺るがせ、守護大名による地方支配が進む。又、その地方も、実力ある実質統治者・守護代や国人(地方の武士層)がとって代わる所謂「下剋上」により、従来の支配体制が崩壊し始めたのである。
 先例により諸事万端処理する京・貴族のやり方が全面的に否定され始めた。その代表例は西軍の主将であった山陰山陽9ヶ国の守護・山名宗全である。宗全は1448年(文安5)頃、すでに土地所有権の認定は「文書の理非」ではなく、「当知行の有無」(占有事実の有無)による「山名方式」を採用した。実力で土地占拠したものを土地所有者として認定する実力主義の宣言であった。

 又幕府に重大な変更を迫ったのは「守護在京原則」の崩壊である。即ち、守護諸大名は将軍膝下に駐屯する戦時体制を持ち込んだ制度で、軍事政権たる幕府の本質に係る重要な伝統であった。しかし、1482年(文明14)後半には京極政経(出雲)、畠山義就(河内)、大内政弘(周防)、土岐成頼(美濃)、山名政豊(但馬)、赤松政則(播磨)、畠山政長(河内、細川正之(阿波)ら有力守護たちは下国して在国し、京都に常駐したのは細川政元とその一門に過ぎなかった。将軍義政にもはや彼らを制裁する力はなかった。守護在京原則は有力守護の政治参加を保証する制度だったが、彼らはこの特権を惜しげもなく振り捨てたのである。幕府は政治的にも軍事的にも、将軍直臣団に頼らざるを得なくなったのである。
 
F48_2 応仁の乱により、寺社本所領ばかりでなく、守護領まで
国人の押領にさらされることも在国を促す動機となった。下国した諸大名は守護代に一任していた支配を改め、自ら分国統治に乗り出し、その際盛んに持いるようになったのが大名自身の花押であった。即ち守護自らが命令権者の立場で領民に発給する文書に花押を押した判物である。もはや、幕府の安堵・裁判機能は低下し、代って守護がその機能を果たしだしたのである。
 守護の判物とは。「御判」と呼ばれた将軍家の御判御教書を指すものであったが、守護の発する文書にも用いられ、
守護の権力の自立を示すものである。(花押上段尼子経久、今川義元中段:毛利元就、朝倉教景1下段:長宗我部元親、朝倉教景2

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2013年9月12日 (木)

夏がぶり返した?

 昨日に続き、今日も最高気温32℃。空気が澄んでいるだけ、陽射しが強く、直射日光下では肌がヒリヒリする。7、8月と夏休みにしていたグランドゴルフを再開して、我々のホームゴルフ場に集まって3時間ぐらいで6コースを回った。久しぶりなのと、夏場で客の少ないため、コース保全が行き届かず深いラフに入り込むことしばしば。悪いスコアで時間ばかりかかって、疲れた。温泉ホテル併設のコースなので、ホテル食堂で昼食したらもう動くのが嫌になって、2時間ばかりおしゃべりをして解散
 今朝の早朝ウオーキング時、昨日の久しぶりの運動のお陰で、彼方此方筋肉が痛くてゆっくりしか歩けず。こんなに運動不足と思わなかったので驚いておる次第。
 今日の花は、実はヒトツバタゴとばかり思って撮った写真だが、違う様なので調べてみて、トネリコだと判った。花はソックリだが花期、葉の大気さ、花の色で間違いが判った次第。
Photo トネリコ(梣)。最近、公園や公共建物の外構によく植えられ、特に最近の洋風住宅の庭木としても多く使われだした木である。この木は日本原産(学名:Fraxinus japonica)で、本州中部以北の山地に自生してたた固有種が亜熱帯に流出、繁殖した。現在の栽培種は日本中に存在。
Photo_2 同上の。本来は小さな葉が爽やかで、観葉の庭木なので、花に関する記述が余りないが、花期5-6月とあるが実際は今も咲き続けている花色薄緑が終り頃薄紫薄茶となって枯れる。現在は色づき始めたので花期も終わりに近い。寒さ、暑さ、湿気に強く育てやすい。樹皮は生薬「秦皮」(消炎、下痢止め、解熱)として使われる。

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2013年9月11日 (水)

争乱の戦国史47 (室町Ⅲ07): 主君を凌いだ英傑・大田道灌

 応仁の乱頃活躍した武将で、超有名な武将・大田道灌は大抵の人が知っている。それは次の「山吹伝説」を聞かされたからでないか。その概要を略記しておく。
山吹伝説:狩に出て雨に遇った扇谷上杉家(武蔵国守護、関東管領)の家宰大田道灌(守護代)は、行きずりの家に蓑を借りたいと頼んだ。出てきた少女は一輪の山吹の花を差し出した。怒って雨中を帰った道灌に、近臣は「兼明親王の歌『七重八重花は咲けども山吹の実の()一つだに無きぞ悲しき』を借りて、蓑一つ無い貧しさを言ったのでしょう」と諭され、少女に劣る無知を恥じた道灌は歌道にも精進し、文武両道に優れ主君をも凌ぐ武将となった逸話である。
F47 足利尊氏外戚の関東管領は、上杉宗家の山内上杉家が世襲した。だが、関東の享徳の乱(1454年)以降は、この乱に活躍した新興の扇谷上杉が勢力を持ち、鎌倉公方・足利氏(関東統治者)との三つ巴の死闘を繰り広げた。
 古今の兵学に通じる道灌(入道名。本名:持資(モチスケ))は兵法を実戦に活かして連戦連勝を納めた。更に有名な話は、築城術にも長けており、江戸城を最初に築いた他、岩槻城や川越城などの堅城を築いている。道灌の孤軍奮闘により扇谷上杉氏の勢力圏は伸びたものの、道灌には大きな落とし穴が待っていた(は道灌の築いた『道灌堀』(吹上御苑そば

 道灌は主君の扇谷上杉定正より、はるかに優れた戦国武将であり、決断一つで下剋上出来る環境にあった。ところが、和歌や連歌に親しむなど一流の教養の持ち主であり、下剋上には踏み切れず主君に尽くし続ける。
 山内上杉顕定に家臣・長尾景春が主君に背いたときも、関東各地を転戦、4年がかりで、景春党の拠点を攻め滅ぼし、鎮圧したのも道灌であった。道灌はまた足軽をうまく使う「足軽戦法を編み出し、築城j術と共に軍略師範とも呼ばれた。
 ところが、主君の定正は、自分より実力も声望も上道灌猜疑心を抱く。そして1486年7月(文明18)、ついに道灌を相模粕屋(伊勢原市)の屋敷に招き入れ、風呂場で謀殺してしまった。道灌は「当方(当家)滅亡せり」と断末魔の一言を残して、その生涯をとじた。道灌の予想通り扇谷上杉が滅亡したのはその60年後の事だった。

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2013年9月10日 (火)

2020年五輪・国際公約の重さ

 IOCがよくぞ東京を選んだものだと思う。東京の唯一の、そして最大の欠点が福島原発による汚染水問題であったろう。しかし、安倍さんはこれを逆手に取った。現状を正直に述べれば「ノー」と云わざるを得ない。で、現状何とかしのいでいるが、7年後には完璧に問題解消してみせるとの「国際公約」をした訳だ。技術的にも難しい問題を解決して行かねばならないが、「総理の決意」が明確に世界中に示されたのだ。もう避けては通れなくなったが、世界は日本のこの決意を待っていたのではなかろうか。それ故この結果を世界中が喜んでいるのではなかろうか。安倍さんどうか一日も早く福島の人を、そして日本を、世界を安心させて下さい。
 五輪決定で株価が上がった。アーあ、買っとけば良かったと悔いつつ、季節の花。
Photo クレオメ(Cleome)。フウチョウソウ(風蝶草)の総称で、これは栽培品種の西洋風蝶草別名酔蝶花。花が蝶が飛んでる感じからの名。熱帯アフリカ原産。花期は7-10月。茎頂に総状の多数の花を付ける。草丈1m位になる。の頃ピンク開くと白くなる。こぼれ種でも育つ強い花。
Photo_2 同上花接写。花弁は4枚で下半分は細く線状となり、花色は淡桃、紫桃、白と変化。雄しべ花と同色で5-7cm、花外に長く突き出ている。雌しべは1本で(写真では判りづらい)花期後に15cm位の莢となり、長柄を付けて四方に広がり、花と共に鑑賞される。

ご報告:小生のホームページ「人生悠々」(http://hihabe.com/)はWin.XPが来春廃版になるのと、サーバー契約期限の関係で本年12月1日を以て閉鎖します。これまでのご愛顧に感謝しますと共に、向後は当ブログをご愛顧頂きますよう願上げます

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2013年9月 8日 (日)

争乱の戦国史46 (室町Ⅲ06): 「風狂」禅師・一休宗純

 ここで、応仁期の著名な英傑二人に触れておこう。先ず今回は「とんちの一休さん」で親しまれる禅師・一休宗純
 一休宗純は、南北朝統一間もない1394年元旦(応永元)に、父・後小松天皇と母伊予の局の間に生まれたが、母が南朝系であったために、その出生は秘密にされ、「後小松天皇の後落胤説」とする本が多い。
 6歳のとき、京都・安国寺に預けられ、周建の名を与えられた一休は、いろんな寺に遊学したが、五山十刹をはじめ大寺院の禅僧が、名利を求めて俗化している様(サマ)に落胆し、在野の厳粛な禅風を守る大徳寺派の僧・謙翁宗為(ケンノウソウイ)に師事した。1414年(応永21)恩師・宗為に死別後、華叟宗曇(カゾウソウドン)に巡り合い、そのもとでさらに極貧の、厳しい修業に打ち込んだ。そして1418年(応永25)、ついに悟りを得て詠んだ歌、「有漏路より 無漏寺へ帰る 一休み 雨降らば触れ 風吹かば吹け」から、一休と号した。
F46 1468年5月(応仁2)、一休宗純(75)は恩師・華叟宗曇の師に当る大徳寺一世住持・徹翁義亨(テットウギコウ)の百回忌を営んだ。それは焼失した大徳寺再建の決意表明であった。
 とんち話を地で行くように、実際の一休は肉食、女犯をし、髪は茫々で、朱鞘の太刀を差し、世間からは「風狂」と呼ばれた。形式や規律を否定した自由奔放な言動を為し、身分の貴賤を問わず、一休は本当の禅を教えたかったのである。大徳寺は一休の尽力と彼を慕う人々により再興され、1474年(文明6)、一休自身も大徳寺の住持になっている。(一休禅師画像

 一休は、宗教面だけでなく、彼の元には文芸の開祖となる人々が集まった。茶道の開祖・村田珠光(ジュコウ)は、一休のもとで禅を学び「侘び」と云う新たな境地を開いた。連歌では飯尾宗祇の弟子・宗長、山崎宗鑑が、又能では世阿弥の女婿・今春禅竹が一休に参禅した。彼らは一休の人間的な魅力に惹かれ多大な影響を受けた。尚、晩年の一休は森侍者(シンジシャ)という盲の女性を溺愛し、臨終(1481年、88歳)に弟子に言ったのは「死にとうない」の一言だった。

 

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2013年9月 7日 (土)

日中、日韓首脳が初接触

 

 安倍首相は5日、ロシア・サンクトペテルブルクでの主要20ヶ国・地域(G20)首脳会議場で、中国の習近平国家主席と初めて会話を交わした。非公式な立ち話だが、首相と習氏は握手を交わし、首相「歴史には謙虚に向き合いつつ未来志向の構築をして行きたい」と述べた。習氏「戦略的互恵関係を推進し続けたい」対日関係改善に向け積極的な姿勢をアピールしたという。この初接触の背景には、中国経済の成長鈍化による先行き不透明感があり、経済の実利面で、日本との関係改善を必要としている事情があると見られている。
 一方、韓国・朴大統領とは「さまざまなレベルで意思疎通重ねるべきだ」と述べたものの、会話内容は公表されてない。いずれにせよ向後の関係改善への糸口となったのであれば喜ばしいことだ。
 今日は濃い緑の中でピンクの花が鮮やかなピンクノーゼンカズラの花を紹介。
Photo ピンクノーゼンカズラ(ピンク凌霄花)。当ブログで、6月17日アメリカノウゼンカズラ(赤橙色ラッパ型の花)を、又7月4日ノウゼンカズラ(橙色朝顔型の花)を紹介したが、これも含め何れもノウゼンンカズラ科の花だが、属が異なり、これはポドラネア属花期7-10月。南アフリカ原産の常緑つる性植物。低木だが3m位にはなる。
Photo_2 
の接写図。別名ポドラネア或いはピンクトランペット。花の蕚が花と同じ色をしているのが特徴。耐寒性はあまり強くないが、耐暑性は強いそうで、今夏の如き猛暑でも元気に咲いている。尚、現在アメリカノウゼンカズラも返り花か、今再度沢山咲いている。

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2013年9月 6日 (金)

争乱の戦国史45 (室町Ⅲ05):応仁の乱(4) 和議そして終焉

 応仁の乱も長引くと、守護の領国では守護代や国人大名などの在地領主が急激に台頭し、土地を直接支配する領主が事実上の支配者として登場し始めた。
 一方、山名宗全と細川勝元の間では、1472年になると、にわかに和議の動きが出始めた。元々、勝元は宗全の婿であり、両家間に根本的な対立があった訳ではなく、宗全の息子たちも足利義就支援には難色を示していた。宗全にとって一家の分裂は、義就のために払う犠牲としてはあまりにも大きすぎた。
 しかし、1472年正月(文明4)から2月にかけての和平交渉は、山名氏と間に領土問題を抱える東軍・赤松正則の抵抗で決裂同年3月、細川勝元は養子・勝之を廃嫡し、自らの髪を切り、5月には宗全が自殺未遂を起こした。勝之の廃嫡により宗全の娘の子・7歳の政元が細川家の家督に決まったが、これは勝元が宗全に送った手打ちのメッセージで、命を取り留めた宗全は隠居し、家督は子の政豊に譲った。そして翌1473年3月宗全は70歳で他界し、その後追うように、勝元同年5月44歳で死去した。
F45_3 山名政豊と細川政元の間で正式な和議が結ばれたのが1474年4月だったが、これは両家の単独講和であり、足利義視・畠山義就らの主戦派は尚も戦闘を継続し、東軍に寝返った山名政豊とも度々交戦した。けれども義視の指導力は完全に低下し、西幕府は幕府としての求心性は失せてしまっていた。

 宗前なき後の西軍を支えたのは土岐成頼の被官・斎藤持是院(ジゼンイン)妙春だった。当時、妙春は美濃一国に留まらず近江・伊勢・尾張などの隣国にも侵略し又、越前に赴いて朝倉・甲斐氏を和解させるなど活躍を見せた。が、その妙春も西幕府の瓦解は止められず、1474年大内政弘が鎮西の乱をを憂い本国周防への下国を望み、翌年12月には義視が義政に恭順の意を評して、義政が義視の罪を不問にした。そして1477年畠山義就が政長勢掃討を理由に河内に下国し、同年11月西軍諸大名が一斉に解散し下国大内政弘は義政から周防・長門・筑前・豊前4ヶ国守護を安堵され周防に下り、土岐成頼は義視を擁して美濃へ、畠山義統も能登に下った。こうして応仁の乱は京都に焼野原を残して終焉を迎えたのである

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2013年9月 5日 (木)

青空がもどった

 長い「秋梅雨」のトンネルを漸く出たか、今日は朝から久しぶりの紺碧の空となった。しかし、秋梅雨などと言う平和な雨ではなかった。この間台風15号が接近し、17号が鹿児島上陸、その間、北部九州から徐々に大雨というか集中豪雨が南下して彼方此方大きな被害をもたらした。勿論山陰から東北にかけても同様の水害が発生し、その上、積乱雲に随伴して発生する竜巻が大きな被害を出している。今後も竜巻が発生する可能性が多いという。
 そん中で、お陰様で当地福岡は爽やかな秋晴れを迎えられホッとしている。しかし、湿度が低く爽やかではあるが、陽射しは真夏のままの強さで、現在10時の室温は30℃となっている。ホントの秋はまだ先のようだ。こんな中で、今日は元気に咲いている「仙人草」。
Photo センニンソウ(仙人草)。学名はクレマチス(Clamatis)。今頃、日当たりの良い林の側や草叢に白い花が目立っている。落葉性のつる植物。果実の白い毛仙人の髭に見立てての名。国内で20種以上あるとか。有毒植物で馬も喰わぬのでウマクワズ、又牛が食べると歯が抜けるので、ウシノハコボレの別称がある。
Photo_2 の接写。だが、花は結構綺麗で、緑の中によく目立つ。花期8-9月。蕚4枚の花弁に見えるのは蕚片で本当の花弁はない。沢山の雄しべと子房があるだけだ。有害成分はポロトアネモニンと云い、汁液が付くと皮膚は腫れるは乾燥して生薬和威霊仙(ワイレイセン)と言い、民間療法で扁桃炎治療に使う由。

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2013年9月 3日 (火)

争乱の戦国史44 (室町Ⅲ04): 応仁の乱(3) 寝返と下剋上

 1470年頃までには、大内政弘の上洛で、西軍は山城をほぼ完全に制圧した。対して細川勝元大内領の後方攪乱や、大内の分国、周防・長門で反乱を惹起したが、めぼしい成果は上がらず。その状況の打開の転機は、1471年5月(文明3)の朝倉孝景の東軍への寝返りであった。孝景は斯波義廉の被官として、斯波義敏追い落としで中心的役割を果たし、応仁の乱でも補給基地の越前を扼し東軍を苦しめた。
 東軍はこの一角の切り崩しで形成逆転可能とみて、東幕府は越前守護への登用を餌に、孝景引抜に成功した。孝景は本拠地を一乗谷に移し、家臣団を周囲に住まわせ城下町の形成を行った。結果、戦国大名の原型と言える権力が誕生した。
F44 これ以後1483年(文明15)には赤松政則被官・浦上則宗が山城守護候補に挙がり、1491年(延徳3)にも、細川政元被官・安富元家が一時的ながら近江守護に就任するなど、家格破壊は一層進んだ。
 また、1479年9月、能登守護・畠山義統と越後守護・上杉房定が結託、畠山政長の分国越中に進攻を図った時、将軍義政は「諸国の御沙汰は毎事力法量」と述べ、実力による領土獲得を黙認したと伝えられる。この時点で下剋上反体制的な運動から合法的な領土獲得手段へと鮮やかな転化を遂げた。(は応仁の乱:戦闘絵図

 孝景の帰服東幕府の勝利を決定づけた。その直後からの義政が長年放置していた古河公方足利成氏の討伐の再開も、孝景の帰服による京都情勢の一段落を示している。一方、西幕府同年8月南朝小倉宮の皇子を京都に迎え入れている。
 南朝の遺臣が皇子を奉じて紀伊に挙兵したのは、東西両軍が惰性的戦闘を続けていた1469年10月(文明元)の事であり、翌1470年頃から、山名宗全主導でこの皇子の擁立検討を始めた。が、後南朝と勢力圏の重なる畠山義就が反対し、実現していなかったのが、朝倉孝景の寝返りで危機的状況に落ちて、一気に実現した。しかし、結局この「朝廷」が有効に機能した証拠はなく、用済みとなった皇子は放り出され流浪の末1479年7月高野山に向ったという報告の後、消息を絶った後醍醐天皇の末裔は此処に日本史から消えた

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2013年9月 2日 (月)

怖いねー、福島汚染水

 福島放射能汚染水漏れの話は怖いですねー。ボルト締めでの「仮設タンク」に高濃度放射線汚染水が貯蔵されており、その基盤の沈下によって歪みの出たタンクから汚染水が漏れ出て、排水路経由で一般海域に流出していたことが判ったという。大容量の貯蔵タンク設置経験者としてこの話を聞くとぞっとした。廃液等の貯蔵タンクは厳密な完成検査を受けないと使用できないが、この場合は基礎や構造などの基準や検査が無かったのか。。
 福島の原発処理は、第一義は「国民の安全を守る」ために行わねばならぬのに、今までの東電のやり方、管理監督すべき政府諸官庁の生ぬるさ等、現地の被災者には腹立たしい限りであろう。政府はもっともっと迅速に対応すべきだ。世界中に流れたこの情報の影響は大きなものとなって跳ね返って来そうだ。そんな心配をよそに咲いた花猩々草。
Photo ショウジョウソウ(猩々草)。頂部の葉が赤くなるなる故の名前。北アメリカ南部の原産。明治期に渡来。花は観賞価値がないが、赤くなる葉が観賞の対象である。花期は7-9月。草丈は30-70cm位。トウダイグサ科ユーフォルビマ属。属名はローマ時代の医師エウフォルブスによる(薬草として用いた)。
Photo_2 ショウジョウソウの。夏に黄緑色の杯状花序を茎頭につける。花序に花弁のない小花が沢山つているのが、この写真でお分かり頂けるだろうか。よく見ると、雄花と雌花が別にあるのもお判りなるだろう。花ってよく見ると面白いもんです。最近はこれを植え居る家も増えた。

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2013年9月 1日 (日)

争乱の戦国史43 (室町Ⅲ03): 応仁の乱(2) 二つの幕府

 将軍義政東軍側についたとき、弟義視は難を逃れるべく、西側に与する伊勢(一色氏・北畠氏)にいた。しかし、1468年9月兄・将軍義政の熱心な説得に屈し、帰京した。何故義視を呼び戻したか、単に義視が伊勢の一色・北畠氏、美濃の土岐氏などの西軍勢力に擁立されることを恐れたとも考えられるが、むしろ義視の保護者を自任する細川勝元の強い意志によると見られる。当時、室町亭では、義尚(義政の実子)への家督継承を望む日野勝光・富子兄妹が大きな発言力をもち、細川勝元と対立を深めていた。
F43_2 それ故、義視は義政に日野等の排斥を迫ったが、耳を貸さぬばかりか義視の仇敵・伊勢貞親を政務に復帰させた。更に11月、義視と親しい有馬元家を義政が殺害するに及んで、義視は室町亭を脱し西軍に身を投じた。西軍は待望の「将軍」を迎え入れ、此処に東西幕府の並立という前代未聞の事態が出現した。この結果、日野富子の思惑通り、義満が正式の将軍家家督相続者になった1469年(文明元))。
 義視の脱走は、細川勝元の計略だとの説もある。日野富子が義尚の将来は山名宗全に託していたとも言われるが、その西軍に秘蔵の義視を送り込み擁立させることで富子の孤立化を図ったとも言われる。事実これ以後、勝元は西軍との戦闘は中止し、唯一長年の仇敵大内政弘の打倒だけに熱意を燃やした。

 西幕府義視を将軍に、管領に斯波義廉、政所執事に伊勢貞親の弟・貞藤を擁し、更に奉行人や東幕府追放の公家たちも出仕しスケールは小さいながら幕府の体裁は整った。義視は大内政弘を左京大夫に任じ、武士や僧侶に官位授与も行った。
 東幕府独自に守護任命を行ったが、特に大和国人・越智家栄を和泉守護に登用した事は画期的である。即ち家格を無視し、守護被官が家格を越えて大名になったのは始めてである。これは戦国大名の登場に道を開いたものである
 尚この当時両幕府に対し、荘園領主は中立的な立場をとった。荘園や所領が両勢力下に分布していたからで、両幕府を文字通り対等の存在として対応した。

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