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2013年9月29日 (日)

争乱の戦国史54 (室町Ⅲ14): 室町幕府の変貌

 応仁・文明の乱後、東西幕府の西幕府が消滅して、各守護や国人は幕府意向とは無関係に進む各地域への覇権確立への戦いに下って行き、乱時の守護連合も消滅した。
 乱後の幕府は将軍と近臣中心のものに性格を変える。有力守護家では唯一在京の細川氏の惣領家が、畿内の領国化を図り乍ら幕府・将軍との関係を強めた。細川氏はいくつかに分かれ、庶家(嫡流外)も阿波・讃岐・和泉などの守護職を代々世襲していた。管領となる惣領家は右京大夫の官職名により京兆家と呼ばれた。
 一方同じ管領家の畠山氏は勢力を失っていた。そして、将軍足利義政夫人・日野富子、sその兄・日野勝光が管領に代わる力を持ち始めた

 1472年(文明5)将軍になった義尚は当初義政のもとでの施政であったが、やがて自立し、長享年間の近江守護六角高瀬征討の近江布陣では結城兄弟、大館、二階堂などの評定衆と呼ばれる側近が決済に影響した。これら評定衆は義尚との親近関係で決まったという。
F54  次の将軍義材(義稙)の代には別の側近衆が登場し、将軍義晴時代の内談衆も同様な存在である。
 このような戦国期、室町幕府で重要な意味を持つ評定衆・内談衆などは家柄に拘わらず、将軍が最も信頼のおける人物を配し、新たな職制と役割を与えたものだと言われる。
 この事から、幕府が将軍と将軍に結びつく特定の集団によって動かされるようになったことを意味している。しかしそれは伝統的家格を持つ者達で構成していた幕府に比し、より分裂しやすいものであった。

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