争乱の戦国史51 (室町Ⅲ11): 琉球王朝の統一(第一次王朝)
古代の沖縄・奄美の人々は日本祖語(日本語の原型)を用い、本土と共通の文化的基盤から出発している。だが、弥生時代以降は言葉も分化し、文化流通は途絶えて(弥生土器や古墳は全く存在せず)、平安時代まで、奄美地域以南はヤマト国の統治領域以外の化外の地であり、力の及ばぬ僻遠の地だった。
ところが、11世紀(鎌倉初期)になると沖縄の島々の歴史は激変する。具体的には、穀物(米・麦など)栽培の農業開始、鉄製利器使用開始、徳之島産須恵器や中国製遺物の増、琉球全体にグスク(城)が登場、各地に按司(首長層)が政治的支配、水田開発などだ。
この頃、中国では、漢族の国家・南宋の時代となり、それが海を越え琉球に影響したと見られ、日本の影響も奄美には及び始め、沖縄・先島・奄美の3地域が歴史上初めて独自の地域即ち琉球を形成し始めた。
グスク登場から300年を経過し、14世紀になると、この共同体間の対立や抗争を得経て、按司達は強大となり大きな勢力圏を形成した。14世紀後半中頃に本島では、北山、中山、南山の3王国が鼎立した。 中国は宋が滅び、漢族の明朝を樹立。皇帝・洪武帝はアジア諸国にその旨伝達の使者を派遣し、琉球には浦添城の中山王・察度(サット)の元へ1369年、楊載が遣わされた。1372年、琉球は新生中国の朝貢国となり、1396年、察度没後、1404年世子の武寧が琉球国中山王に封じられ、初の冊封を受けた。
その2年後(1406年)、沖縄南部・佐敷上城の按司・思紹とその子の尚巴志は当時最強であった浦添城を攻略し、中山の覇者・武寧を滅ぼしその勢力圏を手に入れた。そして15世紀初頭、首里城の大規模な工事を行い、中山の拠点を首里城に移転し、北谷から読谷山に及ぶ広大な地域を従える存在となった。
浦添攻略の10年後(1416)、兵を送り「北山」の今帰仁城を攻め、北山王・攀(ハン)安知を滅ぼした。更にその13年後(1429)、島尻大理城を攻撃し、南山王・他魯毎(タロミー)を滅ぼし、遂に沖縄本島を中心とする地域の政治的統一に成功し、首里城を拠点とする「琉球王国」が誕生したのである。
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