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2013年9月16日 (月)

争乱の戦国史49 (室町Ⅲ09): 応仁乱後Ⅱ 戦国大名出現

 幕府支配から自立し始めた守護大名はその殆どが下国し、分国含めた自国領域の保全・拡大に努める一方、実力のある守護代や国人と称せらる地元有力武士らと調和を図る必要が出てきた。勿論守護や国人の方が勝り、守護大名とって代わる者も現れる。下剋上による戦国大名の出現である
 今川・武田・大友・島津などの戦国大名化に成功した守護の多くは、守護在京原則の対象地域外の関東九州地方に領国を持つ守護達なのだ。守護は将軍の膝下で将軍や天皇を守るのが任務であり、幕府の重職に就き、将軍や天皇の権威を以て、自分の国を支配した。従って実務は守護代に任せたのである。
F49_3 従って応仁・文明の乱中の守護に代わって分国での戦闘を指揮していた守護代或いは従戦した国人が被官達の信望を集め、乱後に守護が下国したときには信頼されず、被官達に見放された場合も多い。この様な守護代には越前・朝倉孝景や美濃・斎藤妙椿がいる。地方武士たちは貴種よりも真の実力者を望んだ。
 複数の分国を飛地にもった有力大名は下国する場合、いずれかは捨てざるを得なかった。大内政弘の場合は周防・長門・筑前・豊前と纏まった領域を保有したが、京極正高の如く出雲・隠岐・飛騨・近江と離れた分国を抱えた大名はどこかの分国を守れば、他は喪失もせざるを得なかった。
 畠山尚慶(政長の子)の場合は河内・紀伊・越中の守護だったが、河内・紀伊確保し、越中は越後守護代・長尾為景に守護領からの年貢納入を請け負わせるという支配方式を採ったという。守護が在国しない諸国では分国を失わざるを得なかった

 戦国大名は中央権力とは一線画して領国経営を行い、領国内の治政・紛争調停などは夫々領国ごとに定めた法(分国法)による裁定を行った。又軍事上の組織は寄親(上級家臣)と称する譜代衆(元からの家臣)、国衆(後に帰属の家臣)、一族衆(大名の血縁者)の下に、寄子と称する足軽(応仁の乱後出現した下級武士)や軍役衆(年貢免除の半農半兵)を廃したのが一般的だった。尚、国人衆は城下に集住させ、農村は安全保障見返りに軍役賦課や差出検地を実施した。

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