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2013年9月13日 (金)

争乱の戦国史48(室町Ⅲ08): 応仁乱後Ⅰ 守護の直支配

 1477年(文明9)まで続いた応仁の乱は、室町幕府の支配体制を大きく揺るがせ、守護大名による地方支配が進む。又、その地方も、実力ある実質統治者・守護代や国人(地方の武士層)がとって代わる所謂「下剋上」により、従来の支配体制が崩壊し始めたのである。
 先例により諸事万端処理する京・貴族のやり方が全面的に否定され始めた。その代表例は西軍の主将であった山陰山陽9ヶ国の守護・山名宗全である。宗全は1448年(文安5)頃、すでに土地所有権の認定は「文書の理非」ではなく、「当知行の有無」(占有事実の有無)による「山名方式」を採用した。実力で土地占拠したものを土地所有者として認定する実力主義の宣言であった。

 又幕府に重大な変更を迫ったのは「守護在京原則」の崩壊である。即ち、守護諸大名は将軍膝下に駐屯する戦時体制を持ち込んだ制度で、軍事政権たる幕府の本質に係る重要な伝統であった。しかし、1482年(文明14)後半には京極政経(出雲)、畠山義就(河内)、大内政弘(周防)、土岐成頼(美濃)、山名政豊(但馬)、赤松政則(播磨)、畠山政長(河内、細川正之(阿波)ら有力守護たちは下国して在国し、京都に常駐したのは細川政元とその一門に過ぎなかった。将軍義政にもはや彼らを制裁する力はなかった。守護在京原則は有力守護の政治参加を保証する制度だったが、彼らはこの特権を惜しげもなく振り捨てたのである。幕府は政治的にも軍事的にも、将軍直臣団に頼らざるを得なくなったのである。
 
F48_2 応仁の乱により、寺社本所領ばかりでなく、守護領まで
国人の押領にさらされることも在国を促す動機となった。下国した諸大名は守護代に一任していた支配を改め、自ら分国統治に乗り出し、その際盛んに持いるようになったのが大名自身の花押であった。即ち守護自らが命令権者の立場で領民に発給する文書に花押を押した判物である。もはや、幕府の安堵・裁判機能は低下し、代って守護がその機能を果たしだしたのである。
 守護の判物とは。「御判」と呼ばれた将軍家の御判御教書を指すものであったが、守護の発する文書にも用いられ、
守護の権力の自立を示すものである。(花押上段尼子経久、今川義元中段:毛利元就、朝倉教景1下段:長宗我部元親、朝倉教景2

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