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2013年9月11日 (水)

争乱の戦国史47 (室町Ⅲ07): 主君を凌いだ英傑・大田道灌

 応仁の乱頃活躍した武将で、超有名な武将・大田道灌は大抵の人が知っている。それは次の「山吹伝説」を聞かされたからでないか。その概要を略記しておく。
山吹伝説:狩に出て雨に遇った扇谷上杉家(武蔵国守護、関東管領)の家宰大田道灌(守護代)は、行きずりの家に蓑を借りたいと頼んだ。出てきた少女は一輪の山吹の花を差し出した。怒って雨中を帰った道灌に、近臣は「兼明親王の歌『七重八重花は咲けども山吹の実の()一つだに無きぞ悲しき』を借りて、蓑一つ無い貧しさを言ったのでしょう」と諭され、少女に劣る無知を恥じた道灌は歌道にも精進し、文武両道に優れ主君をも凌ぐ武将となった逸話である。
F47 足利尊氏外戚の関東管領は、上杉宗家の山内上杉家が世襲した。だが、関東の享徳の乱(1454年)以降は、この乱に活躍した新興の扇谷上杉が勢力を持ち、鎌倉公方・足利氏(関東統治者)との三つ巴の死闘を繰り広げた。
 古今の兵学に通じる道灌(入道名。本名:持資(モチスケ))は兵法を実戦に活かして連戦連勝を納めた。更に有名な話は、築城術にも長けており、江戸城を最初に築いた他、岩槻城や川越城などの堅城を築いている。道灌の孤軍奮闘により扇谷上杉氏の勢力圏は伸びたものの、道灌には大きな落とし穴が待っていた(は道灌の築いた『道灌堀』(吹上御苑そば

 道灌は主君の扇谷上杉定正より、はるかに優れた戦国武将であり、決断一つで下剋上出来る環境にあった。ところが、和歌や連歌に親しむなど一流の教養の持ち主であり、下剋上には踏み切れず主君に尽くし続ける。
 山内上杉顕定に家臣・長尾景春が主君に背いたときも、関東各地を転戦、4年がかりで、景春党の拠点を攻め滅ぼし、鎮圧したのも道灌であった。道灌はまた足軽をうまく使う「足軽戦法を編み出し、築城j術と共に軍略師範とも呼ばれた。
 ところが、主君の定正は、自分より実力も声望も上道灌猜疑心を抱く。そして1486年7月(文明18)、ついに道灌を相模粕屋(伊勢原市)の屋敷に招き入れ、風呂場で謀殺してしまった。道灌は「当方(当家)滅亡せり」と断末魔の一言を残して、その生涯をとじた。道灌の予想通り扇谷上杉が滅亡したのはその60年後の事だった。

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