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2013年9月 8日 (日)

争乱の戦国史46 (室町Ⅲ06): 「風狂」禅師・一休宗純

 ここで、応仁期の著名な英傑二人に触れておこう。先ず今回は「とんちの一休さん」で親しまれる禅師・一休宗純
 一休宗純は、南北朝統一間もない1394年元旦(応永元)に、父・後小松天皇と母伊予の局の間に生まれたが、母が南朝系であったために、その出生は秘密にされ、「後小松天皇の後落胤説」とする本が多い。
 6歳のとき、京都・安国寺に預けられ、周建の名を与えられた一休は、いろんな寺に遊学したが、五山十刹をはじめ大寺院の禅僧が、名利を求めて俗化している様(サマ)に落胆し、在野の厳粛な禅風を守る大徳寺派の僧・謙翁宗為(ケンノウソウイ)に師事した。1414年(応永21)恩師・宗為に死別後、華叟宗曇(カゾウソウドン)に巡り合い、そのもとでさらに極貧の、厳しい修業に打ち込んだ。そして1418年(応永25)、ついに悟りを得て詠んだ歌、「有漏路より 無漏寺へ帰る 一休み 雨降らば触れ 風吹かば吹け」から、一休と号した。
F46 1468年5月(応仁2)、一休宗純(75)は恩師・華叟宗曇の師に当る大徳寺一世住持・徹翁義亨(テットウギコウ)の百回忌を営んだ。それは焼失した大徳寺再建の決意表明であった。
 とんち話を地で行くように、実際の一休は肉食、女犯をし、髪は茫々で、朱鞘の太刀を差し、世間からは「風狂」と呼ばれた。形式や規律を否定した自由奔放な言動を為し、身分の貴賤を問わず、一休は本当の禅を教えたかったのである。大徳寺は一休の尽力と彼を慕う人々により再興され、1474年(文明6)、一休自身も大徳寺の住持になっている。(一休禅師画像

 一休は、宗教面だけでなく、彼の元には文芸の開祖となる人々が集まった。茶道の開祖・村田珠光(ジュコウ)は、一休のもとで禅を学び「侘び」と云う新たな境地を開いた。連歌では飯尾宗祇の弟子・宗長、山崎宗鑑が、又能では世阿弥の女婿・今春禅竹が一休に参禅した。彼らは一休の人間的な魅力に惹かれ多大な影響を受けた。尚、晩年の一休は森侍者(シンジシャ)という盲の女性を溺愛し、臨終(1481年、88歳)に弟子に言ったのは「死にとうない」の一言だった。

 

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コメント

へぇ~、一休さんというとTVアニメの可愛らしいイメージがありますが、こんなに人間くさい人物だったんですね。
そもそも似顔絵がイメージと違います。
子供達に聞いても分からないかもしれませんね。
でも、なんだかとても魅力ある人のようですね。
勉強になりました。

投稿: Y | 2013年9月10日 (火) 10時20分

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