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2013年9月 6日 (金)

争乱の戦国史45 (室町Ⅲ05):応仁の乱(4) 和議そして終焉

 応仁の乱も長引くと、守護の領国では守護代や国人大名などの在地領主が急激に台頭し、土地を直接支配する領主が事実上の支配者として登場し始めた。
 一方、山名宗全と細川勝元の間では、1472年になると、にわかに和議の動きが出始めた。元々、勝元は宗全の婿であり、両家間に根本的な対立があった訳ではなく、宗全の息子たちも足利義就支援には難色を示していた。宗全にとって一家の分裂は、義就のために払う犠牲としてはあまりにも大きすぎた。
 しかし、1472年正月(文明4)から2月にかけての和平交渉は、山名氏と間に領土問題を抱える東軍・赤松正則の抵抗で決裂同年3月、細川勝元は養子・勝之を廃嫡し、自らの髪を切り、5月には宗全が自殺未遂を起こした。勝之の廃嫡により宗全の娘の子・7歳の政元が細川家の家督に決まったが、これは勝元が宗全に送った手打ちのメッセージで、命を取り留めた宗全は隠居し、家督は子の政豊に譲った。そして翌1473年3月宗全は70歳で他界し、その後追うように、勝元同年5月44歳で死去した。
F45_3 山名政豊と細川政元の間で正式な和議が結ばれたのが1474年4月だったが、これは両家の単独講和であり、足利義視・畠山義就らの主戦派は尚も戦闘を継続し、東軍に寝返った山名政豊とも度々交戦した。けれども義視の指導力は完全に低下し、西幕府は幕府としての求心性は失せてしまっていた。

 宗前なき後の西軍を支えたのは土岐成頼の被官・斎藤持是院(ジゼンイン)妙春だった。当時、妙春は美濃一国に留まらず近江・伊勢・尾張などの隣国にも侵略し又、越前に赴いて朝倉・甲斐氏を和解させるなど活躍を見せた。が、その妙春も西幕府の瓦解は止められず、1474年大内政弘が鎮西の乱をを憂い本国周防への下国を望み、翌年12月には義視が義政に恭順の意を評して、義政が義視の罪を不問にした。そして1477年畠山義就が政長勢掃討を理由に河内に下国し、同年11月西軍諸大名が一斉に解散し下国大内政弘は義政から周防・長門・筑前・豊前4ヶ国守護を安堵され周防に下り、土岐成頼は義視を擁して美濃へ、畠山義統も能登に下った。こうして応仁の乱は京都に焼野原を残して終焉を迎えたのである

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