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2013年9月 3日 (火)

争乱の戦国史44 (室町Ⅲ04): 応仁の乱(3) 寝返と下剋上

 1470年頃までには、大内政弘の上洛で、西軍は山城をほぼ完全に制圧した。対して細川勝元大内領の後方攪乱や、大内の分国、周防・長門で反乱を惹起したが、めぼしい成果は上がらず。その状況の打開の転機は、1471年5月(文明3)の朝倉孝景の東軍への寝返りであった。孝景は斯波義廉の被官として、斯波義敏追い落としで中心的役割を果たし、応仁の乱でも補給基地の越前を扼し東軍を苦しめた。
 東軍はこの一角の切り崩しで形成逆転可能とみて、東幕府は越前守護への登用を餌に、孝景引抜に成功した。孝景は本拠地を一乗谷に移し、家臣団を周囲に住まわせ城下町の形成を行った。結果、戦国大名の原型と言える権力が誕生した。
F44 これ以後1483年(文明15)には赤松政則被官・浦上則宗が山城守護候補に挙がり、1491年(延徳3)にも、細川政元被官・安富元家が一時的ながら近江守護に就任するなど、家格破壊は一層進んだ。
 また、1479年9月、能登守護・畠山義統と越後守護・上杉房定が結託、畠山政長の分国越中に進攻を図った時、将軍義政は「諸国の御沙汰は毎事力法量」と述べ、実力による領土獲得を黙認したと伝えられる。この時点で下剋上反体制的な運動から合法的な領土獲得手段へと鮮やかな転化を遂げた。(は応仁の乱:戦闘絵図

 孝景の帰服東幕府の勝利を決定づけた。その直後からの義政が長年放置していた古河公方足利成氏の討伐の再開も、孝景の帰服による京都情勢の一段落を示している。一方、西幕府同年8月南朝小倉宮の皇子を京都に迎え入れている。
 南朝の遺臣が皇子を奉じて紀伊に挙兵したのは、東西両軍が惰性的戦闘を続けていた1469年10月(文明元)の事であり、翌1470年頃から、山名宗全主導でこの皇子の擁立検討を始めた。が、後南朝と勢力圏の重なる畠山義就が反対し、実現していなかったのが、朝倉孝景の寝返りで危機的状況に落ちて、一気に実現した。しかし、結局この「朝廷」が有効に機能した証拠はなく、用済みとなった皇子は放り出され流浪の末1479年7月高野山に向ったという報告の後、消息を絶った後醍醐天皇の末裔は此処に日本史から消えた

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