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2013年9月 1日 (日)

争乱の戦国史43 (室町Ⅲ03): 応仁の乱(2) 二つの幕府

 将軍義政東軍側についたとき、弟義視は難を逃れるべく、西側に与する伊勢(一色氏・北畠氏)にいた。しかし、1468年9月兄・将軍義政の熱心な説得に屈し、帰京した。何故義視を呼び戻したか、単に義視が伊勢の一色・北畠氏、美濃の土岐氏などの西軍勢力に擁立されることを恐れたとも考えられるが、むしろ義視の保護者を自任する細川勝元の強い意志によると見られる。当時、室町亭では、義尚(義政の実子)への家督継承を望む日野勝光・富子兄妹が大きな発言力をもち、細川勝元と対立を深めていた。
F43_2 それ故、義視は義政に日野等の排斥を迫ったが、耳を貸さぬばかりか義視の仇敵・伊勢貞親を政務に復帰させた。更に11月、義視と親しい有馬元家を義政が殺害するに及んで、義視は室町亭を脱し西軍に身を投じた。西軍は待望の「将軍」を迎え入れ、此処に東西幕府の並立という前代未聞の事態が出現した。この結果、日野富子の思惑通り、義満が正式の将軍家家督相続者になった1469年(文明元))。
 義視の脱走は、細川勝元の計略だとの説もある。日野富子が義尚の将来は山名宗全に託していたとも言われるが、その西軍に秘蔵の義視を送り込み擁立させることで富子の孤立化を図ったとも言われる。事実これ以後、勝元は西軍との戦闘は中止し、唯一長年の仇敵大内政弘の打倒だけに熱意を燃やした。

 西幕府義視を将軍に、管領に斯波義廉、政所執事に伊勢貞親の弟・貞藤を擁し、更に奉行人や東幕府追放の公家たちも出仕しスケールは小さいながら幕府の体裁は整った。義視は大内政弘を左京大夫に任じ、武士や僧侶に官位授与も行った。
 東幕府独自に守護任命を行ったが、特に大和国人・越智家栄を和泉守護に登用した事は画期的である。即ち家格を無視し、守護被官が家格を越えて大名になったのは始めてである。これは戦国大名の登場に道を開いたものである
 尚この当時両幕府に対し、荘園領主は中立的な立場をとった。荘園や所領が両勢力下に分布していたからで、両幕府を文字通り対等の存在として対応した。

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