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2013年8月 7日 (水)

争乱の戦国史33 (室町Ⅱ23): 禁闕の変

 1422年11月足利義勝は元服し、将軍宣下を受けわずか9歳ながら7代将軍に就位した。ところが翌年7月在位わずか8ヶ月で、急病死した。管領・畠山持国亭で、諸大名の評定会議が開かれ、義勝の同母弟三春(義政)が次期家督に選ばれ、母・重子と高倉亭に留まり、そのまま将軍亭とした。
 この権力の空白を突いて事件が起こった。1443年9月(嘉吉3)の禁闕の変である。禁闕(皇居)の賢所に武装した賊が侵入して、天皇は女房姿に実をやつし脱出、左大臣近衛房嗣の屋敷に身を寄せた。この時、三種の神器の内宝剣と神璽奪われ、宝剣は戻ったが神璽は15年後まで戻らなかった。これは南朝再興を狙っての神器奪還であり、内裏は放火され、都のあちこちで幕府軍との戦いが行われた。
 事件の首謀者は将軍家とも密接なかかわりのある日野有光と南朝後胤・金蔵主であり、又、後鳥羽院の末裔と称する鳥羽(源)尊秀なる者も加わっていた。有光はかって義持の勘気で出家させられ、義教時代には二度に亘り所領没収。義勝時代に赦免されたが、足利と北朝には遺恨を抱いていた。又義教を暗殺した赤松家の一党も加わっていたという。
F33_3 兇徒等は事件後、山門根本中堂に立て籠ったが、御花園天皇により朝敵追討の綸旨が山門に発せられ、日野有光と金蔵主は山徒に殺害され鳥羽尊秀は逃走した。又有光の子・資親はその被官ら50名余と共に幕府の手で斬罪に処され、金蔵主の兄・通蔵主は四国へ流罪となった。その後も、京都に居住していた南朝の後胤の多くが巻き添えを食った。神璽の行方不明以外はあっけない幕切れとなったのである。(左図後南朝系図参照)。
 この年の12月、赤松満政に預けられていた播磨三郡山名持豊に与えられ、持豊は播磨国一円の支配を確立するが、持豊離反を防ぐ管領畠山持国の懐柔策の可能性が高い。これに不満な赤松満政・教政親子1444年10月播磨に下国したが、追討綸旨を入手した山名持豊らに攻撃され、1445年3月敗死した。

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