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2013年8月

2013年8月31日 (土)

台風は熱低へ、そして大雨

 朝、台風15号は済州島の北側を通過し、熱帯低気圧となって対馬海峡を抜けて日本海に向かいつつある。従って風による災害は殆どないが、南下してきて九州北部、中国地方にあった不連続線を刺激したものだから、一昨日から降り続いている雨が、雷鳴を伴う土砂降りの大雨を降らした
 間欠的ではあるがこの酷い降り方で、福岡市街でも床下浸水したところもあり、交通網は麻痺。干天続きであったため、慈雨と喜んだのもつかの間、あちこち土砂崩れ、橋桁崩壊、更にはやっと出穂した稲や野菜の大被害
 どうしてこんな全国的な天候異変が起きるのか。気象予報士は海水温の上昇を上げるが、温暖化が進めば、これが常態となるのであろうか。今日はそんな中で咲き続けている夏藤。
Photo ナツフジ(夏藤)。マメ科ナツフジ属で、フジとは別種。東海地方以西、四国九州に分布。花も葉も藤と同じ。だが、丈が60-80cm位で、今時分咲いているのを不思議思い調べたら「夏藤」だった。新生の茎は2mm位で、冬枯れずに残れば5mm程度になるという。山路の道端や低木林に自生する。
Photo_2 ナツフジの。花期は7-9月。20cm程の花穂を形成し、緑白色の1.5cm位の蝶型花を咲かせる。夏に咲くので土用藤の異名もある由。果実は豆果で10-15cmの無毛の鞘になる。園芸種には淡桃色の花のアケボノナツフジがあるそうだ。

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2013年8月29日 (木)

争乱の戦国史42(室町Ⅲ02): 応仁の乱(1) 争乱勃発

 

1467年1月(応仁元)の御霊社の乱後、表面は平穏であったが、大乱は既に潜行して進んでいた。3月節句、山名持豊・畠山義就は花の御所(将軍義政)に参賀し、又今出川の義視(弟・次期将軍)に謁した。が、管領・細川勝元は出仕せず、秘かに兵を集めた4月には山名方の年貢米が山陰・山陽の領国から京都に運ばれる途中、細川方に奪われる事件が起きた。
 5月には失脚していた赤松正則が細川勝元の支援を受け旧領播磨を山名氏から奪還し、斯波義敏の兵が越前・尾張・遠江などに入り、世保正康が伊勢に侵入し山名方を攻め、同じく京都でも5月26日細川方武田信賢・細川成之・一色義直亭を襲った。此処に応仁・文明の乱の戦端が開かれたのである。
 細川勝元率いる東軍は、細川一族と京極持清、赤松政則、武田信賢、畠山政長、山名是豊らが、山名宗全率いる西軍には山名一族と管領・斯波義廉、畠山義就、一色義直、土岐成頼らが加わった。両方とも姻戚関係での結合が強く、『応仁記』によれば、東軍16万1500余騎、西軍11万6000余騎と記している。
F42_3
 戦いは当初、室町亭を占拠し、義政・義尚・義視らの身柄を確保した東軍に有利に展開した。山名方と気脈を通じた日野富子(義政正妻)とその兄の反対を押し切って義政から幕府の『牙旗(将軍旗)』を入手し、官軍としての地位を獲得したことが功を奏した。結果、西軍の意気は上がらず、富樫政親が早々に東軍へ寝返り、斯波義廉、土岐成頼らも相次いで東軍へついた。
 だが8、周防の大内政弘が海路3万の軍勢率いて上洛し、西軍に合流して一変した。危機を見て、御花園上皇、後土御門天皇は仙洞御所、内裏を捨て室町亭に逃げ、同日足利義視(次期将軍予定)が伊勢に下った。伊勢は守護・一色義直、国司の子・北畠政郷も西軍贔屓で、西軍合流を目指したと考えられる。
 大内勢の上洛で力を得た西軍は攻勢に転じ東軍を本陣の室町亭に追い込んだ。
 9月後花園上皇は責任を取って出家する。この戦乱で京の町は灰燼にきした。1467年から、主戦場が南郊に移るまで、殆どの神社仏閣が焼け落ちた。放火の多用は、市街戦だった事もあるが、戦力の大半が一揆衆の後裔たる足軽による戦闘であったことが大きな要因と言われる。

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2013年8月28日 (水)

福岡古墳から古代ローマのガラス玉

 福岡・宗像市田久瓜ヶ坂遺跡(古墳時代:6世紀中頃)から出土したガラス玉(径5mm)を奈良文化財研究所が蛍光エックス線分析した結果、古代ローマの支配下であったエジプトで採取された特殊な鉱物「ナトロン」が使われていることが判明した。国内では京都・長岡市宇津久志1号墳に次いで2例目という。今回のガラス玉は透明度を高めるための添加物質もローマガラスの特徴と一致したという。同研究所によれば、紀元前後から4世紀頃までに製造されたガラス玉と思われ、当時のシルクロード交易を知る上で貴重だとのこと。
 古代宗像は海洋民の国あったところで、大陸から半島経由で色んな物や文化並びに人類が渡来又は行き来した処である。そしてこの宗像一帯には沢山の古墳遺跡があり、考古学の宝庫でもある処だから、まだまだ貴重な遺物発見を期待したい。
 雨後、朝の涼しさが増し、今日は草木や稲に露が降りて、朝日に光っていた。そんな中で、綺麗になってきた「ハツユキカズラ」を紹介。
1 ハツユキカズラ(初雪葛)。勿論花ではなく、観葉植物。別名テイカフイリカズラ(定家斑入葛)。テイカカズラの斑入り品種で、白い斑が入っている故初雪の名がある。これの原産国は日本。つる性の様に見えるが、常緑つる性低木に分類されるである。蔓の長さは精々10-30cm。
Photo 同上の新芽。今新芽が沢山出ているので美しい。ご覧の様に赤みの強い淡いピンクだが、徐々に白くなり、ついで白と緑の斑点が混じって来て最終的には緑一色となる。尚、この緑の葉が秋から冬にかけ紅葉し1年中楽しめる。寄植やハンギング、グランドカバーなどになる。尚、カズラはつる性植物のこと

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2013年8月27日 (火)

争乱の戦国史41 (室町Ⅲ01): 応仁の乱前哨戦:御霊合戦

 今回より室町時代の3期「衰退期」に入る1466年9月(文正元)、将軍・義政の側近・伊勢貞親の放った足利義視(義政の弟)謀反の噂が京を駆け巡った。貞親が後見する足利義尚(9代将軍)の立場を盤石にし、諸大名の不満を一気に抑え込む賭けに出た。ところが義視は細川勝元亭に逃げ無実を訴え、一転貞親が義視ざん訴の罪を問われ出奔し、与党の斯波義敏、赤松正則らも没落した。文政の政変である。が、この時すでに 次の火種が内在した。
 1466年12月畠山義就(ヨシヒロ)山名持豊(宗全)の支援で、河内から上洛、京都千本地蔵に陣取った。これが、畠山政長の支持者細川勝元と宗全の関係を一気に悪化させた。かっては勝元以上に強硬な反義就派だった宗全が義就支持者に変わったのは、1458年八幡神人討伐で、義就と共に出陣しその勇猛・人柄に惚れ、また仇敵赤松正則が細川勝元の支援で政界に復帰したこと、などが要因だろう。

 1467年正月(3月応仁に改元)、義就と対面した将軍義政は恒例の政長亭への御成りを中止して、突如畠山に義就への屋敷明渡しを迫った。政長はこの命令に反発し管領を辞し後任に山名方の斯波義廉が任じた。政長支持派の日野富子(義満の母)がその情報を山名方に漏らし、勝元の策は失敗に終わった。 
F41_2 政長は邸を自焼して単身室町亭の北東上御霊社に陣取り、18日夕刻、義就との合戦の火ぶたが切られた。御霊合戦である。戦いは山名勢・斯波義廉の加勢を受けて義就方の圧勝に終り、政長は分国摂津方面へと遁走した
 義政は戦火の拡大を恐れ、かねてより畠山家の内紛に介入しないように諸大名に要請していたが、これを忠実に守った勝元は老獪な宗全に出し抜かれた。だが、義就方の勝利勝元が動かなかったためで一時的勝利に過ぎなかった。
 にも拘わらず、宗全・義就派は初戦の勝利に油断して将兵を本国に戻し、日夜酒宴と田楽に明け暮れる毎日であった。難を避けていた天皇と上皇も御所に戻り、細川勝元も石清水で奉納連歌会を開催。将軍義政も発句を寄せた。結局この合戦は表向き、義就と政長の死闘に過ぎないとした。が、これが応仁の乱の糸口となった。 

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2013年8月26日 (月)

雨が止んだら秋?

 

2週間近く雨が全然降らず、最高気温36度以上が1週間続いて草木が枯れ始めた頃、降り出した雨は慈雨だと思ったが、激しく張ったり止んだり。その3日続いた雨が今朝止んで薄日がさし始めた。極暑の夏から梅雨のトンネルを抜けるとそこは秋だった、というか、向後の気温は最低気温25,6℃、最高気温30~33度の予測、通常の真夏気温だが、猛暑から急にそうゆう世界に入ると、ほんとに”秋だ!”と思えるから不思議なものだ。
 そういう環境になって、初めて”人”らしい思考ができるようになった気もする。極暑の中では大概の事はどうでもよかった。だから、政治課題の、消費税、憲法問題、原発問題等ものすごく重要な諸課題を先送りしている政府は、国民が冷静に判断できる気候条件を待っているのか? 確かに少し涼しくなったのか、初夏に咲いた花の「返り花」色々咲いている。そんな中今日は晩夏から初秋に咲くサルビアの一種を紹介。
1 サルビア・コッキネア(Salvia coccinea:学名)。 南北アメリカ原産。別名ベニバナサルビア。英名はトロピカルセージ日本には1879年の渡来。サルビアの1種。花期7-11月。花色はこの他、白、赤があり、サルビアでは花期の長い代表種。野生種もあるそうだ。これは民家の花壇の花。
2 コッキネア上の近接撮影)花は写真の如くセージ特有の変わった形をしている。花色赤はスカーレット白はスノーホワイトという。このピンクはコーラルニンフの名がついている。耐寒性が無いので、冬は枯れてしまうが、こぼれ種から発芽することもある由。

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2013年8月24日 (土)

争乱の戦国史40 (室町Ⅱ20): 長禄・寛正の大飢饉

 1459年(長禄3)は異常天候の年だった。3月、田植えの準備時期に雨降らず、9月には山城、大和を台風が襲って大洪水となり、鴨川の大氾濫のため京都市中の溺死者だけでも膨大な数に上った。結果、京への米の輸送は止まり、米価が暴騰し餓死者が続出した。このため、徳政一揆11月には京に乱入している。さらに、太陽が二つに見えたり、妖星が月を犯す異変があった。一説には「小氷河期」であったとも言われる
 ところが、翌年もこの天候異変は続き、春から初夏にかけ日照りが続き田植時の水不足が深刻となった。各地での水争いも激しくなった。西岡一帯では、桂川の水取合戦を引き起こし、紀州でも寺僧と郷民の水争いで血の雨が降った。そして、5月末には一転ひどい長雨となり、6月中降り続き、異常低温となってしまった。特に近江方面では琵琶湖が氾濫し冠水した水稲は立ち腐れ、人々は土地を捨て流亡し始めた。
F40_2 このような状況につきものの疫病が流行し死亡も増えた。又秋になるとイナゴの大群が発生し、群れを成しての飛来では空を暗くしたといい、広い範囲で稲が全滅した。前年来の不作に加え、「人民相食む」餓鬼道に落ちる。1461年2月(寬正2)に禅僧・雲泉大極が聞いたところでは鴨川の流れを堰き止めるほどの死者は8万2千人に達したという。この数はある僧が供養のため、8万4千本の卒塔婆を1本ずつ使者の上に置いて回り、後2千本しか残らなかったというところからのもので、かなり正確な数字と言われる。(は施餓鬼に集まる餓鬼をえがいた「餓鬼草紙」の一部)

 民衆が大飢饉に苦しみ、次々餓死者が出る惨状の中で将軍・足利義政は何をしたか。「花の御所」と呼ばれた将軍公邸を作り、京中の寺社や貴族の邸宅から銘木や庭石を取り寄せ、室内調度も最高の材料と一流の絵師や職人を使い贅を尽くした大豪邸とした。義政が手を打った飢饉対策は施粥にわずかな銭を援助した事と、大寺院に命じて死者の冥福を祈ったぐらいで、為政者としての義務は全く果たしていない。その費用は全て苛斂誅求(カレンチュウキュウ)の形で民衆から搾取したものである。
 余りの事に、御花園天皇はそれを諫める漢詩を作って義政に贈った。しかし、この「お前だけが栄えていいのか」という趣旨の天皇の忠告も、義政は聞く耳を持たなかったのである。当に応仁の乱の前夜といえる状況にたちいたったのである。

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2013年8月23日 (金)

地球はまだ暑くなる予測

 気候変動に関する政府間パネル(IPCC:CO₂排出量を想定し、将来の地球気候を予測)の第一作業部会の第五次報告書案ができ、9月下旬ストックホルムでの世界の科学者政府関係者の会合で確定される。それによると、最近の20年間平均に対し、今世紀末の20年年間平均では海面水位が26~81㎝上昇すると予測し、前回予測を上回ると上方修正している。又、気温は0.3~4.8℃上昇と予測し、前回予測値より少なくなったが、これは、予測モデルの精度が上がった結果だそうだ。
 温暖化は人間の活動が原因で起きている可能性が、95%以上の確率で、『極めて高い』としている。その結果、グリーンランドの氷床が動いて、海に解ける影響が大きく、海面上昇量が大きくなったという。炭酸ガス排出量を抑えるための技術研究・開発も進んではいるが、エネルギーの無駄遣い(人間として生きる上で必要な活動以外の)が増えてきたせいだ。これの抑制にさら人類上げて取り組まねばならない、それが「人」の英知だろう。
 それと今年の暑さは関係ないだろうが、この現象も地球規模で起きているようだが、何とかならぬかこの暑さと言いたくなる。今日も満開状態の季節の花を紹介。
Photo 上ランタナ(Lantana)。和名はシチヘンゲ(七変化)。6月頃より咲始め、橙黄色、橙色、朱色、赤紫色と変化してゆく故の名前。現在写真の如く赤紫色が増えてきて盛りだ。花弁は4つに分かれ、沢山の蕾の外縁から順次咲くので、黄色い花(若い花)のには小さな四角のがある。(上図右下辺りの花)。
Photo_2 終末期の赤い花。江戸期に渡来。可愛い花だが熱帯、亜熱帯では野生化し、厄介な植物として、世界の侵略的外来種ワースト100に入っている。乾燥に強く、夏のカンカン照りにも耐えるので、今夏特に目立つのか。果実は液果で、種子は有毒だが、小鳥は食べても種子をばら撒くだけで、害はない。

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2013年8月22日 (木)

争乱の戦国史39 (室町Ⅱ29): 斯波家内紛と戦国大名萌芽

 将軍・義政の時、難題の一つに斯波家当主・義敏とその重臣甲斐常治との間に続いている激しい内戦があった。この内戦で斯波家分国越前・尾張・遠江は戦場と化し荒廃した
F39_2 1436年(永享8)、当主の早世相次ぐ斯波家は5歳の義建が家督を継いだが、幼少のため家務は「被官人等評定」に委ねていた。この被官人等評定は一門の斯波持種と被官の宿老・甲斐常治により主導されたが、1447年5月(文安4)には持種派が一揆して常治に襲撃を企てる事件があり、斯波持種と甲斐常治主導権を巡り激しく対立していった。
 1452年9月(享徳元)当主・義建が18歳で夭折したので、持種の子・義敏が急遽家督を継いだが、越前の有力な国人領主でもあり守護代であった甲斐常治とは対立した。結果、義敏と常治は主従の対立へと変わっていった

 被官の常治の主人への敵対は「謀反」になるが、長年謀反状態を維持雄できるのは、常治の妹が政所執事で将軍義政の信頼厚い伊勢貞親の側室という関係もあるが、斯波家は将軍に次ぎ高い家格を有し、将軍家にとっても油断できない名門だった。その斯波家の被官でありながら、将軍家から斯波家を監視する目付として配されたのが甲斐氏だった。従って将軍家から甲斐氏に対しては斯波家を通さず直接命令したり恩賞をあたえるという、直臣並みの位置づけだった。更には甲斐常治の「謀反」を支えたのは、朝倉氏、織田氏など守護代クラスの他斯波家被官達の支持だった。
 1459年8月(長禄3)、甲斐常治が没した後も、斯波義敏は主導権を回復できず、将軍義政の命で家督を実子の松王丸に譲り、周防の大内教弘のもとへ落ち延びた。その松王丸も1461年9月(寬正2)に廃され、新しい当主には足利政知の補佐役だった渋川義鏡の子・義廉が養子に迎えられた。

 このように、守護被官の一揆が守護家への主導権を掌握した時こそ、まさに戦国大名出現の第一歩であった。但し、甲斐常治の死により、その達成は常治の同僚・朝倉隆景に託されたのである。

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2013年8月21日 (水)

暑い夏に、息苦しい問題

 福岡市では昨日の最高気温37.9℃。今日も37度を超す予報。連続5日目。その上雨が降らない。地面ががちがちに乾燥し、草や野菜の葉は萎れている。
 こんな暑い日に新聞を広げると、福島原発原因不明の放射能汚染水が漏出。レベル1(逸脱)からレベル3(重大な異常現象)に引き上げを規制委員会は検討中という。いつも東電は初めは小さなトラブルのように言い、調べると重大事故というのが多い。原発事故のレベルは、チェルノブイリと並び最悪のレベル7なのだから、周辺の異常につき、もっと神経質に対応せねば、世界の信用を失う。だけでなく、住民の被害が更に増大しかねない。国の支援体制も急いで強化しないと東電にも限界があると思う。
 暑い晩夏(初秋)ではあるが季節の花が咲いている。今年もこの花が咲きました。
1 パンパスグラス(Pampas grass)。和名はシロガネヨシ(白銀葦)。原産地の南米・アルゼンチンの草原パンパから来た名前。花は白、薄緑(下図)から薄茶色に変化してゆく。草丈2-3m花穂は50-70cm雌雄別種で、雄花はほっそりした穂だが、雌花は写真のように大きな穂となる。花期9-10月。
 2
 下同上の。日本に渡来したのは明治中頃。葉はススキに似て縁が鋭いので皮膚を切りやすい。径1cm以上あり篠竹に近い感じである。大きく繁茂するので一般家屋の庭には適さず、他所では見かけない。

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2013年8月19日 (月)

争乱の戦国史38 (室町Ⅱ28): 享徳の乱

 信濃・大井氏に庇護されていた足利持氏(元4代関東公方)の遺児・万寿王は持氏旧臣達の関東公方再興へと鎌倉への帰還運動により、1447年(文安4)、関東公方への就任を許され、鎌倉に入った。1449年16歳で元服し、将軍義成(義教)の偏諱を受け、成氏(シゲウジ)と名乗る。一方永享の乱後、出家・隠遁していた上杉憲実は、家督の弟・清方急死のため、上杉山内家の被官たちが憲実の子龍忠丸(憲忠)を還俗させ、家督に据えた。更に憲忠1447年には関東管領にも就任した。対して、持氏旧臣たちが上杉方勢力への巻き返しを図り、1450年4月(宝徳2)に両者が衝突・江の島合戦が起こった。成氏勢は腰越、由比ヶ浦等での激戦の末、上杉勢を打ち破り、成氏は鎌倉に戻った。
F38_2 江の島から鎌倉へ帰参した関東公方・成氏は統治への意欲を見せたが、幕府の干渉を受け、権勢は見る影もなかった。この焦燥の中、成氏は関東管領・上杉憲忠を関東公方亭に誘い出し、謀殺した事から1454年12月享徳の乱が始まる。
 当然幕府上杉方を支持し、翌年駿河守護・今川範忠の軍勢と共に、憲忠後継としての弟・上杉房顕を派遣した。一方の足利成氏方は鎌倉を脱出して下総国古河に本拠を移し、小山、結城氏を支持基盤として古河公方と呼ばれた。この結果、関東は北関東・房総のの諸氏を中心とする古河公方派と、相模・武蔵・西上野を中心とする関東管領派分裂した。更に、幕府は古河公方に対抗すべく、1457年(長禄元)将軍・義政の弟・政知鎌倉公方ととして派遣し、伊豆堀越に留まったので堀越公方と呼ばれた。

 当然、関東管領上杉氏は、山内家・扇谷家・犬懸家に分かれ対立があったが、管領上杉家・山内の重臣長尾景仲と管領上杉房顕が相次ぎ死亡。幕府の意向で越後守護・上杉房定の子・顕定関東管領を継承した。これで強い力を得た顕定側の攻勢で、公方・成氏は一時古河を退去。しかし、1476年(文明8)山内上杉氏内の長尾景春の反乱で成氏は勢力を回復し、京側の優勢も長続きしなかった。結局、1482年(文明14)、山内・扇谷両上杉氏と足利成氏の間で和睦が成立。此処に28年に亘る享徳の乱も終息し、関東の状況も新たな段階に入る。

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2013年8月18日 (日)

続く酷暑の中、秋の予兆が・・・

 晩夏、或は初秋という言葉をチラホラ聞くようになった。が、天気予報では当地・福岡の向こう1週間の最高気温は連日36度と報じている。しかし、昨日岡の中心地・天神では40℃を越えた。処、場所によってはかなりの高温になっているようだ。気を付けねばいけない。
 そういう現実ながら、蝉も晩夏の蝉に交替、クマゼミは鳴かなくなった。代りにアブラ蝉ががなり立てている。赤とんぼも見かける。植物も晩夏、初秋に咲く花へと代ってきた。そんな中、晩夏から秋口にかけて咲くタカサゴ百合が沢山咲き始めて居る
1 タカサゴユリ(高砂百合)。この百合は台湾固有種で、日本には園芸用として移入され帰化植物として全国に分布。比較的原野や荒地に広く分布。強いので、更地や荒地などに生植するという。これも造成宅地の草叢に咲いたもの。テッポウユリに似るが茎が太く、丈も1.5m位、花長15-20cmと大きく、葉幅は細い
22 同上。花の特徴は花の外側に淡褐色の筋が入る。タカサゴの名前台湾の地名から来たと思われる。(沖縄方言では台湾をタカサングという)。尚、この百合は種子で増える。種の房は10cm位あり、数百以上の種子が入っているというが、房1つの種を蒔いても、芽が出るのは1-2本との事。

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2013年8月17日 (土)

争乱の戦国史37 (室町Ⅱ27): 管領家・将軍家の内紛

 1449年(文安6)義成は元服して将軍宣下を受け、8代将軍・義政となる。そして1450年からは将軍が御判御教書(花押の入った公文書)を発給している。それを示すのが1450年7月(宝徳2)、義成の尾張守護代の人事介入である。だが、これは管領・畠山持国や母・日野重子の戒めで撤回された。将軍権力を及ぼそうとする義成と、管領として一定の権限保留を画する細川・畠山両家のせめぎ合いであった。

 畠山持国は男子が無く弟・持富を後継者指名したが、1437年待望の男子が出生1448年(文安5)に実子を後継者に指名し翌年、将軍・義成の偏諱を受け(名の1字を貰う)義夏(のち義就(ヨシヒロ))と名乗り義成の寵愛を受けた。一方持富は子息・弥三郎を残して1452年(宝徳4)他界。持国は義夏のため弥三郎を除こうとしたが、細川勝元と山名持豊が弥三郎を匿い、畠山被官の弥三郎支持があり、持国の思惑は外れ、義夏が京都を追われた
 この結果将軍・義政(義成)は仕方なく弥三郎の家督継承を認め、併せて、勝元に命じ、勝元被官磯貝兄弟を誅殺せしめた。山名持豊がこれに反発し。義政が持豊追討を命じたが、勝元の嘆願で本国但馬での隠居となった。
 持豊が去ると早速、畠山義夏が入京し、弥三郎は遁走した。結果は義政の思惑通りになった。持国は翌年1455年3月(享徳4)他界した。
F37_2 義政・富子夫妻にも男子が無くの浄土寺の門跡・義尋を還俗させ義視と名乗らせ、養子とした(1465年)。ところが翌年11月、富子が義尚を生む。我が子を将軍としたい富子は山名持豊を後ろ盾にし、対抗馬の義視は管領・勝元を後ろ盾に選んだ。富子と義視の対立持豊と勝元の対立となり、更に夫々が畠山義就と畠山政長を味方にし、幕府の中枢を分解、実力者同士の激突必至となった。(将軍家・管領家の内紛、対立関係
 そんな折、1467年正月(応仁元)、畠山義就(義夏改名)が山名持豊邸に、将軍義政、義視を迎え大宴会を催した。二日後、管領畠山政長が突然罷免され、山名持豊の後押しを受けていた斯波義廉が新管領になった。それと知った政長派は直ちに武装して出撃、酒屋や土倉の略奪を行った。これに対し、持豊、義就も将兵を集めたのは言うまでもない。応仁・文明の乱の始まりであった

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2013年8月16日 (金)

温暖化がリンゴを甘くした

 農業・食品産業技術総合研究機構(つくば市)の研究チームが長野(2010年までの41年間)・青森(2010年までの36年間)のリンゴの糖度や酸っぱさを調べたところ、糖度は長野は1.3度、青森は1.2度上がり、酸が15%減少したに対し糖度は平均5%増えた。即ちリンゴが甘くなっているのである。温暖化の影響はコメや小麦の収穫量が減っていることは知られているが味への影響が科学的に裏付けられたのは世界で初めてと英科学誌が発表した
 温暖化、特に昨今の猛暑などはあらゆる生物に影響し、生態系も変化するであろうが、当然ながら人類にも影響し、人間の組織や機能に変化が表れて来てもおかしくはない。古生代からの生物の進化、特に人類の進化は今後もますます進む筈だ。
 こんな事と関係ないかも知れないが、毎年今頃は芙蓉が咲き始める筈が、今年は全然見ず、昨日初めて発見?したので掲載。多分この高気温のせいで遅れているのだろう。
Photo フヨウ(芙蓉)。中国、日本原産。日本では四国以西で自生している。栽培種の観賞用関東以南で栽培されている。樹高は3mにもなる。花期7-10月初め。朝咲いて夕方萎む1日花。花色は白もある。酔芙蓉は半八重で、朝咲いた白い花が段々色づき夕方ピンク、赤になり、萎む別種類の花
1 フヨウの花(接写古くは芙蓉の樹皮下駄の鼻緒や和紙の補強剤、縄などに加工されて、生活用品として使われたそうである。木槿(ムクゲ)に似ているが、花も葉も明らかに大きく葉の形も異なるので、識別は容易である。

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2013年8月14日 (水)

争乱の戦国史36 (室町Ⅱ26): 守護大名家の内紛

 通常、守護大名家の惣領は、将軍の指名により決められていたが、将軍義政の頃から、多くの守護大名家では深刻な分裂と対立が始まり、修復不可能となってゆく。
 信濃守護・小笠原氏は長秀の死後、弟・政康が継いだが、政康が死ぬと持長(長秀の子)と国人たちが推す宗康(政康の子)が対立する。幕府は宗康を惣領としたが、持長は認めず、1446年(文安3)以来、何度か合戦を繰り返す中で持長が勝利する。
 美濃守護・土岐家では発狂した持益に代り、重臣・斎藤氏と豊島氏が実権を握っていたが、1444年閏6月斎藤利明が京都の土岐亭で守護代・富島氏を謀殺したの機に両氏が交戦状態に入り、美濃は乱国の体になる。

 同年7月には隣国近江でも守護六角家被官人一揆して当主・持綱に叛旗を翻した。土岐・六角家の内紛はどちらも当主器量不足を背景に、守護被官層が主導的に戦った点で、戦国的な様相を示しているが、この時点では未だ被官層自らが大名にとって代わるまでには至っていない。補任権を持つ将軍権力が健在であり、将軍自身が守護家と守護被官層との家格秩序を尊重している限り、守護被官が家格をこえて大名に成り上がらない。
 伊予守護・河野教道と庶子家・通春の紛争もこの頃激化するが、畠山持国と細川勝元の両管領が夫々、教道と通春を支持したため解決は難航した。以降、管領の交替の度、河野家守護職も交代したが、この内紛は伊予一国に留まらずに応仁・文明の乱の引き金にもなってゆく。
F36_2 中央の畠山・細川の対立が事態を深刻化したのは、加賀守護・富樫家も同様であった。富樫家当主教家は嘉吉の変のわずか数日前に将軍・義教から家督を剥奪され、弟の泰高が加賀守護となったが、畠山持国が管領に就任すると、教家の子・成春を加賀守護に復帰させた。ところが1445年(文安2)管領が細川に戻ると、勝元は逼塞していた泰高を召しだし、三春(後の将軍義政、11歳)の教家・成春父子支援に抗議し、管領の辞意まで示したという。この細川勝元の抗議は三春の母・日野重子に向けられたものだ。(細川勝元木像
 1447年5月、勝元加賀守護職を折半し、成春と泰高に分与する案をだし、成春方が激しく抵抗したが、最終的には持国の譲歩で成立した。若い勝元の背後には叔父の持賢がいて、権謀術数の全てを叩き込んだという。これら、惣領職を巡る対立が飢餓感や鬱積した不満を膨らませ、応仁の乱が勃発するに至るのである

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2013年8月13日 (火)

景気は回復しているの?

 昨日発表されたGDP(4-6月期の実質国内総生産)は年率換算で、2.6%増となった。これの評価には意見まちまちで、安倍政権支持者は「順調に景気回復」といい、アベノミクス効果だと吹聴する。が、一方日銀発表の7月の国内企業物価指数(国内の企業間取引の商品価格指数)は前年同月比2.2%上昇と発表している。
 それよりなにより、中小企業の経営者が輸入物価の上昇をどこで、如何に切詰めるか必至であり、一般庶民の台所事情は一向に改善してなく、「景気回復」という実感は殆どないという。それを100も承知なのが、国会で決めた来春8%への消費税増税に、2の足を踏んでいる安倍さんではないのか。余りの暑さに頭がボーとしている内に、庶民の生活が壊されないように気を付けよう。この酷暑の中で、例年通り咲いた花。
Photo ナツズイセン(夏水仙)。学名の属称からリコリス(Lycoris)とも呼ばれる。中国原産。本州以南で、人家近くに生育。写真は青味懸った(早朝撮影のため)が、花色はピンク。下図の如く花茎の先端に、8-10個のラッパ型の花を付ける。ヒガンバナとも同じ仲間なのでよく似た花。
Photo_2 同上の。開花期8月中-下旬。この時期には葉が出ておらず、別名ハダカユリの名がある。茎は球根で葉が肥大化して重なり合って玉ねぎ状で、有皮鱗茎という。これにはリコリンという有毒成分があるそうだ。

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2013年8月12日 (月)

争乱の戦国史35 (室町Ⅱ25): 本願寺中興の祖・蓮如

 蓮如誕生の頃(1415年(応永22))、宗祖・親鸞が興した浄土真宗の法脈を引く下野・専修寺系と親鸞の血脈を引く京都・本願寺派に大きく分かれ、専修寺派系の京都・仏光寺が巧みな布教戦略で最盛期を迎えていた。これに対し、本願寺は訪れる人もまばらで、法主一族の生活も貧苦のどん底であった。
 蓮如は本願寺事務・存知(ゼニョ)と下働きの女性との間に生まれ、貧困の中で育った。6歳の時父が正妻を迎え実母は出奔。貧苦のなかでの心の寄り処阿弥陀如来であった。蓮如は20歳で結婚、妻にも次々先立たれ、生涯5人の妻を迎え13男14女をもうけた。父存知の没後事務の座蓮如に回ってきた。最初の取組は、高僧本尊との同一視を改め、出家、在家を問わずすべての信者対等の念仏者と見做したことだった。ここに「宗教の還俗」が行われたのである。

 蓮如の雑多な本尊類の焼却処分は、仏法の守護者を自任する本寺比叡山を刺激し、1465年(寬正6)、大谷本願寺は二度に亘り山門(比叡山延暦寺)の攻撃を受け、破却された「寬正の法難」である。
F35 大谷を追われた蓮如は河内、摂津、近江守山など各地を転々、堅田のたどり着いたが、琵琶湖航行の幕府輸送船に海賊行為をしたかどで山門に焼き討ちされ(堅田大責め)、1471年4月(文明3)、山門の手が及ばない北陸に向かい、同年7月越前吉崎に腰を据えた。これ以後4年に亘る布教拠点吉崎御坊(加賀国、照西寺蔵)である。
 蓮如が「御文」を布教手段に用い出したのがこの頃である。蓮如の教えは明快である。「一心に弥陀の救いを信じ、たのむ気持ちが起これば、その時点で救いが約束される(信心決定)。念仏を唱えることによる救いを求める自力念仏は排され、臨終時の弥陀来迎を仰ぐも念仏も不要」とされた。信者は「生前の信心決定で既に極楽往生は約束されている」とする。
 これらの教えを仮名交じりの平易な文章で誰にもわかるように説き明かしたのが、蓮如の御文である。現在知られているだけで二百数十通に及び、精選に精選を重ねたもので、蓮如の全思想と言われる。坊主や信徒の布教活動の際のテキストとし、親鸞の教えが誤って伝わらないようにしたものとも言われる。

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2013年8月11日 (日)

40℃超の猛暑

 昨日は関東以西では最高気温40℃を超えた地点多数出た。さすがにこの暑さは「これまで経験した事の無い」暑さである。こうなると、外に出て風の吹く日陰に居る方がずっと涼しい感じがすることを、たまたま外出して経験した。勿論所用のための外出であり、所用のために暑さを忘れるということもあろうが、図書館でもいい、美術館・博物館めぐりでもいい。はたまた森林山中の寺社参拝でもいいが、家に籠ってないで外出をお勧めする。そんな暑い中で、屈み込んででないと判らない小さな夏の花を見つけたので紹介。
Photo ヒメイワダレソウ(姫岩垂草)。学名はリピアカネケンス(Lippia canescens)。南アメリカ原産。背丈5-10cm。花期は6-9月。ランタナそっくりの花だが小さく花径5-7mm位の花で、下図の如く可愛い花を咲かせている。匍匐性で、草丈が低いので公園などのグランドカバーに用いられるようだ。
Photo_2 の接写図:写真は公園の雑草の中で咲いていたもの。丈夫で育てやすいので地被植物として、雑草抑制のため使われるそうだ。比較的日当たりの良い、水はけの良いところが適地で乾燥にも強いそうだから、こんな日照りの中でも元気なのだろう。クマツヅラカ科のイワダレソウ属で、ランタナと近縁種

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2013年8月 9日 (金)

争乱の戦国史34 (室町Ⅱ24): 日朝、日明交易と海賊衆

 1420年(応永27)、朝鮮の対馬襲撃事件が落着したので、国交回復を求めて宗希瓊(ソウキケイ)一行が博多に来航した。それを受けて博多商人・宗金(ソウキン)が彼を京都に送り届け、九州探題と連携して幕府との外交仲介した。
 1429年(永享元)の朝鮮通信使・朴瑞生(ズイセイ)の日本訪問には、船行の便を提供したり、幕府使者として朝鮮渡航し、斯波氏の朝鮮貿易を請け負ったり1450年(宝徳2)の文宗即位を祝賀し、「大蔵経」3千8百巻を与えられた。
 北九州、瀬戸内海の海賊衆とは密接に結び付き、当時朝鮮渡航時の一行50名には海賊衆も含まれたいたが、当時彼らの手助けなしには遠洋航海は無理であった。海賊の掟も充分に承知し、宗金自身が立派な海賊大将であったという。当時の貿易商人は幅広い海外知識、仏教的素養を身に着け、幕府権力と密着し、海賊衆と連携しており、生半がな武家など足元にも及ばなかった。
F34 一方、1451年(報徳3)には明国との勘合貿易船出航した。前回(1432年)より大規模となって、9隻の船団を編成し、硫黄、銅、太刀、蒔絵など膨大な取引商品を積み込んだ。しかし気候悪く、実際には2年後の出航で3週間を要し寧波に入った。渡航者1200人の内300人が北京入京が許され大宗謁見した。唯、官収買は前回に比し10分の1にしかならなかった。これは明側が財政上対応できなかった為とされたが、実際は明側がは周辺の野蛮国が朝貢を持参したという認識しかなく、貿易船はやむなくそのまま帰国した。遣明船

 ここでの海賊衆は、以前の倭寇の流れを汲むものであるが、略奪を主とする海賊ではなく、水軍兵力を持つ海上豪族を指すもので、古代以来の名門・宗像氏松浦氏海賊大将であり、瀬戸内では忽那(クツナ)、河野、多賀谷、小早川などの有力豪族=国人海賊大将と呼ばれた。それは、水上航路を押さえ、関銭をとりたてたからこう呼ばれたものの、交通路に関所を設けた荘園領主と同じ行為をしていたのであり、遣明船の警護を幕府は伊予・周防・備後の海賊衆に命じている。

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2013年8月 8日 (木)

夏、真っ盛り

 今、夏の風物詩、「95回全国高校野球大会」甲子園の開会式が終わったところ。毎年の事ながら、1年中の1番熱いこの時期の野球は、多くの人々の感動を誘う。昨日が立秋七夕。そして明日は長崎原爆の日と真夏のセレモニーが続く。当地福岡は相変わらず、最高気温36℃の日が続く。あと10日以上続くと予想される真夏日をどう過ごそうかが悩み。今日も真夏の木の花。
Photo クサギ(臭木)。葉に触れると悪臭がする故の名だが、実際は臭いはすぐ消える。日本全国に分布。花期は7-9月。果実は草木染で、媒染剤なしに絹を鮮やかな空色に、赤い蕚は灰色に染める。花観賞には牡丹クサギがあり、ピンクのきれいな花を付けるので庭木とされ、かすかな芳香がある
Jpg クサギの花。花の形が変わっていて、萼から長く突き出た先に咲く。花びらは白、は初め緑だが次第に赤くなり実は赤い額の上につき、実も美しい。この果実は野鳥によく摂食されて分散する。この野生の木も新たに切り開いた土地に最初に侵入する先駆植物(パイオノア)の典型。これも山の切通しにあったもの。

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2013年8月 7日 (水)

争乱の戦国史33 (室町Ⅱ23): 禁闕の変

 1422年11月足利義勝は元服し、将軍宣下を受けわずか9歳ながら7代将軍に就位した。ところが翌年7月在位わずか8ヶ月で、急病死した。管領・畠山持国亭で、諸大名の評定会議が開かれ、義勝の同母弟三春(義政)が次期家督に選ばれ、母・重子と高倉亭に留まり、そのまま将軍亭とした。
 この権力の空白を突いて事件が起こった。1443年9月(嘉吉3)の禁闕の変である。禁闕(皇居)の賢所に武装した賊が侵入して、天皇は女房姿に実をやつし脱出、左大臣近衛房嗣の屋敷に身を寄せた。この時、三種の神器の内宝剣と神璽奪われ、宝剣は戻ったが神璽は15年後まで戻らなかった。これは南朝再興を狙っての神器奪還であり、内裏は放火され、都のあちこちで幕府軍との戦いが行われた。
 事件の首謀者は将軍家とも密接なかかわりのある日野有光と南朝後胤・金蔵主であり、又、後鳥羽院の末裔と称する鳥羽(源)尊秀なる者も加わっていた。有光はかって義持の勘気で出家させられ、義教時代には二度に亘り所領没収。義勝時代に赦免されたが、足利と北朝には遺恨を抱いていた。又義教を暗殺した赤松家の一党も加わっていたという。
F33_3 兇徒等は事件後、山門根本中堂に立て籠ったが、御花園天皇により朝敵追討の綸旨が山門に発せられ、日野有光と金蔵主は山徒に殺害され鳥羽尊秀は逃走した。又有光の子・資親はその被官ら50名余と共に幕府の手で斬罪に処され、金蔵主の兄・通蔵主は四国へ流罪となった。その後も、京都に居住していた南朝の後胤の多くが巻き添えを食った。神璽の行方不明以外はあっけない幕切れとなったのである。(左図後南朝系図参照)。
 この年の12月、赤松満政に預けられていた播磨三郡山名持豊に与えられ、持豊は播磨国一円の支配を確立するが、持豊離反を防ぐ管領畠山持国の懐柔策の可能性が高い。これに不満な赤松満政・教政親子1444年10月播磨に下国したが、追討綸旨を入手した山名持豊らに攻撃され、1445年3月敗死した。

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2013年8月 6日 (火)

猛暑が長引く予報

 今日より又ブログを再開する。暑い!天気予報では関東以南は向う10日間位、34-36℃の最高気温が続くという。幸い昨日、一昨日と雨が降り、樹木や草、農作物も一息ついただろう。今頃は草花は少ないが、花を付けている樹木は多い。昆虫類が蜜を吸うために花によって来ている。しかし、昼間のホントに暑い時間帯にはセミの鳴き声が一時止まっている。あまり暑いと蝉も鳴かないのかな?今日はエンジュの花。
Photo エンジュ(槐)。今エンジュが花盛りで、ミツバチが寄って来ており、花びら沢山散っている。この木は学校の校庭に生垣の様に植わっているもの。中国原産。日本には仏教伝来の頃(奈良時代)渡来したらしく、古くから台湾、日本、韓国で植栽されてきた。中国名が槐(ファイ)で、日本でもそのまま使用。学名Sophora japonica。sophoraはアラビア語で「蝶のような」から来ている。
Photo_2 槐の花接写。花、蕾にはルチンを多く含有し、動脈硬化や高血圧治療に用いられるとか。開花期は7-8月。蜂の重要な密源排気ガスに強い事もあり、街路樹としてよく用いられる。花が終わると、数珠状の豆の実を付ける。中国では尊貴の木として尊重されているという。

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2013年8月 1日 (木)

炎暑が続く中、秋の雲が・・・

 福岡では連日34~36℃の気温が続き、連日早朝ウオーキング時には、翅の透けたクマゼミシャアシャアというような鳴き声でがなり立るように鳴いている。しかしこの蝉は午前中位までで、午後にはジリジリという感じの鳴き方のアブラゼミ(茶色の翅)が鳴く。不思議に小さなニイニイゼミは見なくなったが、蝉は暑さを倍加する
 長期予報では向こう2週間この状態が続くそうな。何でも最高記録が出ているが、高気温や水害は要らぬものだ。
 こんな中、極く最近、晴れた朝には下図のような雲が出始めた。これは秋の雲。勿論陽が上がるとこれ等は入道雲に代っている。暑い暑いと云ってるうちに、秋がひそかに忍び寄っている兆しである。やがて、虫の音も聞こえる様になろう。
Jpg すじ。雲の分類では巻雲(ケンウン)という。一番高層(5000~13000m)に発生する雲で、偏西風の強まりと共に現れる、即ちジェット気流に伴って発生する雲で、季節の移り変わりを示す雲である。これが出ると秋になる。

Photo

  つじ。雲の分類では高積雲といい、中層(2000~7000m)に発生する。この雲の発生した形により、うろこ雲、さば雲、いわし雲などと呼ぶ。

お知らせ:当ブログ5日まで夏休みとします。が、それ以降もまたご愛読ください。

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