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2013年8月29日 (木)

争乱の戦国史42(室町Ⅲ02): 応仁の乱(1) 争乱勃発

 

1467年1月(応仁元)の御霊社の乱後、表面は平穏であったが、大乱は既に潜行して進んでいた。3月節句、山名持豊・畠山義就は花の御所(将軍義政)に参賀し、又今出川の義視(弟・次期将軍)に謁した。が、管領・細川勝元は出仕せず、秘かに兵を集めた4月には山名方の年貢米が山陰・山陽の領国から京都に運ばれる途中、細川方に奪われる事件が起きた。
 5月には失脚していた赤松正則が細川勝元の支援を受け旧領播磨を山名氏から奪還し、斯波義敏の兵が越前・尾張・遠江などに入り、世保正康が伊勢に侵入し山名方を攻め、同じく京都でも5月26日細川方武田信賢・細川成之・一色義直亭を襲った。此処に応仁・文明の乱の戦端が開かれたのである。
 細川勝元率いる東軍は、細川一族と京極持清、赤松政則、武田信賢、畠山政長、山名是豊らが、山名宗全率いる西軍には山名一族と管領・斯波義廉、畠山義就、一色義直、土岐成頼らが加わった。両方とも姻戚関係での結合が強く、『応仁記』によれば、東軍16万1500余騎、西軍11万6000余騎と記している。
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 戦いは当初、室町亭を占拠し、義政・義尚・義視らの身柄を確保した東軍に有利に展開した。山名方と気脈を通じた日野富子(義政正妻)とその兄の反対を押し切って義政から幕府の『牙旗(将軍旗)』を入手し、官軍としての地位を獲得したことが功を奏した。結果、西軍の意気は上がらず、富樫政親が早々に東軍へ寝返り、斯波義廉、土岐成頼らも相次いで東軍へついた。
 だが8、周防の大内政弘が海路3万の軍勢率いて上洛し、西軍に合流して一変した。危機を見て、御花園上皇、後土御門天皇は仙洞御所、内裏を捨て室町亭に逃げ、同日足利義視(次期将軍予定)が伊勢に下った。伊勢は守護・一色義直、国司の子・北畠政郷も西軍贔屓で、西軍合流を目指したと考えられる。
 大内勢の上洛で力を得た西軍は攻勢に転じ東軍を本陣の室町亭に追い込んだ。
 9月後花園上皇は責任を取って出家する。この戦乱で京の町は灰燼にきした。1467年から、主戦場が南郊に移るまで、殆どの神社仏閣が焼け落ちた。放火の多用は、市街戦だった事もあるが、戦力の大半が一揆衆の後裔たる足軽による戦闘であったことが大きな要因と言われる。

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