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2013年8月27日 (火)

争乱の戦国史41 (室町Ⅲ01): 応仁の乱前哨戦:御霊合戦

 今回より室町時代の3期「衰退期」に入る1466年9月(文正元)、将軍・義政の側近・伊勢貞親の放った足利義視(義政の弟)謀反の噂が京を駆け巡った。貞親が後見する足利義尚(9代将軍)の立場を盤石にし、諸大名の不満を一気に抑え込む賭けに出た。ところが義視は細川勝元亭に逃げ無実を訴え、一転貞親が義視ざん訴の罪を問われ出奔し、与党の斯波義敏、赤松正則らも没落した。文政の政変である。が、この時すでに 次の火種が内在した。
 1466年12月畠山義就(ヨシヒロ)山名持豊(宗全)の支援で、河内から上洛、京都千本地蔵に陣取った。これが、畠山政長の支持者細川勝元と宗全の関係を一気に悪化させた。かっては勝元以上に強硬な反義就派だった宗全が義就支持者に変わったのは、1458年八幡神人討伐で、義就と共に出陣しその勇猛・人柄に惚れ、また仇敵赤松正則が細川勝元の支援で政界に復帰したこと、などが要因だろう。

 1467年正月(3月応仁に改元)、義就と対面した将軍義政は恒例の政長亭への御成りを中止して、突如畠山に義就への屋敷明渡しを迫った。政長はこの命令に反発し管領を辞し後任に山名方の斯波義廉が任じた。政長支持派の日野富子(義満の母)がその情報を山名方に漏らし、勝元の策は失敗に終わった。 
F41_2 政長は邸を自焼して単身室町亭の北東上御霊社に陣取り、18日夕刻、義就との合戦の火ぶたが切られた。御霊合戦である。戦いは山名勢・斯波義廉の加勢を受けて義就方の圧勝に終り、政長は分国摂津方面へと遁走した
 義政は戦火の拡大を恐れ、かねてより畠山家の内紛に介入しないように諸大名に要請していたが、これを忠実に守った勝元は老獪な宗全に出し抜かれた。だが、義就方の勝利勝元が動かなかったためで一時的勝利に過ぎなかった。
 にも拘わらず、宗全・義就派は初戦の勝利に油断して将兵を本国に戻し、日夜酒宴と田楽に明け暮れる毎日であった。難を避けていた天皇と上皇も御所に戻り、細川勝元も石清水で奉納連歌会を開催。将軍義政も発句を寄せた。結局この合戦は表向き、義就と政長の死闘に過ぎないとした。が、これが応仁の乱の糸口となった。 

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