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2013年8月24日 (土)

争乱の戦国史40 (室町Ⅱ20): 長禄・寛正の大飢饉

 1459年(長禄3)は異常天候の年だった。3月、田植えの準備時期に雨降らず、9月には山城、大和を台風が襲って大洪水となり、鴨川の大氾濫のため京都市中の溺死者だけでも膨大な数に上った。結果、京への米の輸送は止まり、米価が暴騰し餓死者が続出した。このため、徳政一揆11月には京に乱入している。さらに、太陽が二つに見えたり、妖星が月を犯す異変があった。一説には「小氷河期」であったとも言われる
 ところが、翌年もこの天候異変は続き、春から初夏にかけ日照りが続き田植時の水不足が深刻となった。各地での水争いも激しくなった。西岡一帯では、桂川の水取合戦を引き起こし、紀州でも寺僧と郷民の水争いで血の雨が降った。そして、5月末には一転ひどい長雨となり、6月中降り続き、異常低温となってしまった。特に近江方面では琵琶湖が氾濫し冠水した水稲は立ち腐れ、人々は土地を捨て流亡し始めた。
F40_2 このような状況につきものの疫病が流行し死亡も増えた。又秋になるとイナゴの大群が発生し、群れを成しての飛来では空を暗くしたといい、広い範囲で稲が全滅した。前年来の不作に加え、「人民相食む」餓鬼道に落ちる。1461年2月(寬正2)に禅僧・雲泉大極が聞いたところでは鴨川の流れを堰き止めるほどの死者は8万2千人に達したという。この数はある僧が供養のため、8万4千本の卒塔婆を1本ずつ使者の上に置いて回り、後2千本しか残らなかったというところからのもので、かなり正確な数字と言われる。(は施餓鬼に集まる餓鬼をえがいた「餓鬼草紙」の一部)

 民衆が大飢饉に苦しみ、次々餓死者が出る惨状の中で将軍・足利義政は何をしたか。「花の御所」と呼ばれた将軍公邸を作り、京中の寺社や貴族の邸宅から銘木や庭石を取り寄せ、室内調度も最高の材料と一流の絵師や職人を使い贅を尽くした大豪邸とした。義政が手を打った飢饉対策は施粥にわずかな銭を援助した事と、大寺院に命じて死者の冥福を祈ったぐらいで、為政者としての義務は全く果たしていない。その費用は全て苛斂誅求(カレンチュウキュウ)の形で民衆から搾取したものである。
 余りの事に、御花園天皇はそれを諫める漢詩を作って義政に贈った。しかし、この「お前だけが栄えていいのか」という趣旨の天皇の忠告も、義政は聞く耳を持たなかったのである。当に応仁の乱の前夜といえる状況にたちいたったのである。

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