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2013年8月22日 (木)

争乱の戦国史39 (室町Ⅱ29): 斯波家内紛と戦国大名萌芽

 将軍・義政の時、難題の一つに斯波家当主・義敏とその重臣甲斐常治との間に続いている激しい内戦があった。この内戦で斯波家分国越前・尾張・遠江は戦場と化し荒廃した
F39_2 1436年(永享8)、当主の早世相次ぐ斯波家は5歳の義建が家督を継いだが、幼少のため家務は「被官人等評定」に委ねていた。この被官人等評定は一門の斯波持種と被官の宿老・甲斐常治により主導されたが、1447年5月(文安4)には持種派が一揆して常治に襲撃を企てる事件があり、斯波持種と甲斐常治主導権を巡り激しく対立していった。
 1452年9月(享徳元)当主・義建が18歳で夭折したので、持種の子・義敏が急遽家督を継いだが、越前の有力な国人領主でもあり守護代であった甲斐常治とは対立した。結果、義敏と常治は主従の対立へと変わっていった

 被官の常治の主人への敵対は「謀反」になるが、長年謀反状態を維持雄できるのは、常治の妹が政所執事で将軍義政の信頼厚い伊勢貞親の側室という関係もあるが、斯波家は将軍に次ぎ高い家格を有し、将軍家にとっても油断できない名門だった。その斯波家の被官でありながら、将軍家から斯波家を監視する目付として配されたのが甲斐氏だった。従って将軍家から甲斐氏に対しては斯波家を通さず直接命令したり恩賞をあたえるという、直臣並みの位置づけだった。更には甲斐常治の「謀反」を支えたのは、朝倉氏、織田氏など守護代クラスの他斯波家被官達の支持だった。
 1459年8月(長禄3)、甲斐常治が没した後も、斯波義敏は主導権を回復できず、将軍義政の命で家督を実子の松王丸に譲り、周防の大内教弘のもとへ落ち延びた。その松王丸も1461年9月(寬正2)に廃され、新しい当主には足利政知の補佐役だった渋川義鏡の子・義廉が養子に迎えられた。

 このように、守護被官の一揆が守護家への主導権を掌握した時こそ、まさに戦国大名出現の第一歩であった。但し、甲斐常治の死により、その達成は常治の同僚・朝倉隆景に託されたのである。

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