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2013年8月19日 (月)

争乱の戦国史38 (室町Ⅱ28): 享徳の乱

 信濃・大井氏に庇護されていた足利持氏(元4代関東公方)の遺児・万寿王は持氏旧臣達の関東公方再興へと鎌倉への帰還運動により、1447年(文安4)、関東公方への就任を許され、鎌倉に入った。1449年16歳で元服し、将軍義成(義教)の偏諱を受け、成氏(シゲウジ)と名乗る。一方永享の乱後、出家・隠遁していた上杉憲実は、家督の弟・清方急死のため、上杉山内家の被官たちが憲実の子龍忠丸(憲忠)を還俗させ、家督に据えた。更に憲忠1447年には関東管領にも就任した。対して、持氏旧臣たちが上杉方勢力への巻き返しを図り、1450年4月(宝徳2)に両者が衝突・江の島合戦が起こった。成氏勢は腰越、由比ヶ浦等での激戦の末、上杉勢を打ち破り、成氏は鎌倉に戻った。
F38_2 江の島から鎌倉へ帰参した関東公方・成氏は統治への意欲を見せたが、幕府の干渉を受け、権勢は見る影もなかった。この焦燥の中、成氏は関東管領・上杉憲忠を関東公方亭に誘い出し、謀殺した事から1454年12月享徳の乱が始まる。
 当然幕府上杉方を支持し、翌年駿河守護・今川範忠の軍勢と共に、憲忠後継としての弟・上杉房顕を派遣した。一方の足利成氏方は鎌倉を脱出して下総国古河に本拠を移し、小山、結城氏を支持基盤として古河公方と呼ばれた。この結果、関東は北関東・房総のの諸氏を中心とする古河公方派と、相模・武蔵・西上野を中心とする関東管領派分裂した。更に、幕府は古河公方に対抗すべく、1457年(長禄元)将軍・義政の弟・政知鎌倉公方ととして派遣し、伊豆堀越に留まったので堀越公方と呼ばれた。

 当然、関東管領上杉氏は、山内家・扇谷家・犬懸家に分かれ対立があったが、管領上杉家・山内の重臣長尾景仲と管領上杉房顕が相次ぎ死亡。幕府の意向で越後守護・上杉房定の子・顕定関東管領を継承した。これで強い力を得た顕定側の攻勢で、公方・成氏は一時古河を退去。しかし、1476年(文明8)山内上杉氏内の長尾景春の反乱で成氏は勢力を回復し、京側の優勢も長続きしなかった。結局、1482年(文明14)、山内・扇谷両上杉氏と足利成氏の間で和睦が成立。此処に28年に亘る享徳の乱も終息し、関東の状況も新たな段階に入る。

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