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2013年8月17日 (土)

争乱の戦国史37 (室町Ⅱ27): 管領家・将軍家の内紛

 1449年(文安6)義成は元服して将軍宣下を受け、8代将軍・義政となる。そして1450年からは将軍が御判御教書(花押の入った公文書)を発給している。それを示すのが1450年7月(宝徳2)、義成の尾張守護代の人事介入である。だが、これは管領・畠山持国や母・日野重子の戒めで撤回された。将軍権力を及ぼそうとする義成と、管領として一定の権限保留を画する細川・畠山両家のせめぎ合いであった。

 畠山持国は男子が無く弟・持富を後継者指名したが、1437年待望の男子が出生1448年(文安5)に実子を後継者に指名し翌年、将軍・義成の偏諱を受け(名の1字を貰う)義夏(のち義就(ヨシヒロ))と名乗り義成の寵愛を受けた。一方持富は子息・弥三郎を残して1452年(宝徳4)他界。持国は義夏のため弥三郎を除こうとしたが、細川勝元と山名持豊が弥三郎を匿い、畠山被官の弥三郎支持があり、持国の思惑は外れ、義夏が京都を追われた
 この結果将軍・義政(義成)は仕方なく弥三郎の家督継承を認め、併せて、勝元に命じ、勝元被官磯貝兄弟を誅殺せしめた。山名持豊がこれに反発し。義政が持豊追討を命じたが、勝元の嘆願で本国但馬での隠居となった。
 持豊が去ると早速、畠山義夏が入京し、弥三郎は遁走した。結果は義政の思惑通りになった。持国は翌年1455年3月(享徳4)他界した。
F37_2 義政・富子夫妻にも男子が無くの浄土寺の門跡・義尋を還俗させ義視と名乗らせ、養子とした(1465年)。ところが翌年11月、富子が義尚を生む。我が子を将軍としたい富子は山名持豊を後ろ盾にし、対抗馬の義視は管領・勝元を後ろ盾に選んだ。富子と義視の対立持豊と勝元の対立となり、更に夫々が畠山義就と畠山政長を味方にし、幕府の中枢を分解、実力者同士の激突必至となった。(将軍家・管領家の内紛、対立関係
 そんな折、1467年正月(応仁元)、畠山義就(義夏改名)が山名持豊邸に、将軍義政、義視を迎え大宴会を催した。二日後、管領畠山政長が突然罷免され、山名持豊の後押しを受けていた斯波義廉が新管領になった。それと知った政長派は直ちに武装して出撃、酒屋や土倉の略奪を行った。これに対し、持豊、義就も将兵を集めたのは言うまでもない。応仁・文明の乱の始まりであった

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