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2013年8月14日 (水)

争乱の戦国史36 (室町Ⅱ26): 守護大名家の内紛

 通常、守護大名家の惣領は、将軍の指名により決められていたが、将軍義政の頃から、多くの守護大名家では深刻な分裂と対立が始まり、修復不可能となってゆく。
 信濃守護・小笠原氏は長秀の死後、弟・政康が継いだが、政康が死ぬと持長(長秀の子)と国人たちが推す宗康(政康の子)が対立する。幕府は宗康を惣領としたが、持長は認めず、1446年(文安3)以来、何度か合戦を繰り返す中で持長が勝利する。
 美濃守護・土岐家では発狂した持益に代り、重臣・斎藤氏と豊島氏が実権を握っていたが、1444年閏6月斎藤利明が京都の土岐亭で守護代・富島氏を謀殺したの機に両氏が交戦状態に入り、美濃は乱国の体になる。

 同年7月には隣国近江でも守護六角家被官人一揆して当主・持綱に叛旗を翻した。土岐・六角家の内紛はどちらも当主器量不足を背景に、守護被官層が主導的に戦った点で、戦国的な様相を示しているが、この時点では未だ被官層自らが大名にとって代わるまでには至っていない。補任権を持つ将軍権力が健在であり、将軍自身が守護家と守護被官層との家格秩序を尊重している限り、守護被官が家格をこえて大名に成り上がらない。
 伊予守護・河野教道と庶子家・通春の紛争もこの頃激化するが、畠山持国と細川勝元の両管領が夫々、教道と通春を支持したため解決は難航した。以降、管領の交替の度、河野家守護職も交代したが、この内紛は伊予一国に留まらずに応仁・文明の乱の引き金にもなってゆく。
F36_2 中央の畠山・細川の対立が事態を深刻化したのは、加賀守護・富樫家も同様であった。富樫家当主教家は嘉吉の変のわずか数日前に将軍・義教から家督を剥奪され、弟の泰高が加賀守護となったが、畠山持国が管領に就任すると、教家の子・成春を加賀守護に復帰させた。ところが1445年(文安2)管領が細川に戻ると、勝元は逼塞していた泰高を召しだし、三春(後の将軍義政、11歳)の教家・成春父子支援に抗議し、管領の辞意まで示したという。この細川勝元の抗議は三春の母・日野重子に向けられたものだ。(細川勝元木像
 1447年5月、勝元加賀守護職を折半し、成春と泰高に分与する案をだし、成春方が激しく抵抗したが、最終的には持国の譲歩で成立した。若い勝元の背後には叔父の持賢がいて、権謀術数の全てを叩き込んだという。これら、惣領職を巡る対立が飢餓感や鬱積した不満を膨らませ、応仁の乱が勃発するに至るのである

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