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2013年8月12日 (月)

争乱の戦国史35 (室町Ⅱ25): 本願寺中興の祖・蓮如

 蓮如誕生の頃(1415年(応永22))、宗祖・親鸞が興した浄土真宗の法脈を引く下野・専修寺系と親鸞の血脈を引く京都・本願寺派に大きく分かれ、専修寺派系の京都・仏光寺が巧みな布教戦略で最盛期を迎えていた。これに対し、本願寺は訪れる人もまばらで、法主一族の生活も貧苦のどん底であった。
 蓮如は本願寺事務・存知(ゼニョ)と下働きの女性との間に生まれ、貧困の中で育った。6歳の時父が正妻を迎え実母は出奔。貧苦のなかでの心の寄り処阿弥陀如来であった。蓮如は20歳で結婚、妻にも次々先立たれ、生涯5人の妻を迎え13男14女をもうけた。父存知の没後事務の座蓮如に回ってきた。最初の取組は、高僧本尊との同一視を改め、出家、在家を問わずすべての信者対等の念仏者と見做したことだった。ここに「宗教の還俗」が行われたのである。

 蓮如の雑多な本尊類の焼却処分は、仏法の守護者を自任する本寺比叡山を刺激し、1465年(寬正6)、大谷本願寺は二度に亘り山門(比叡山延暦寺)の攻撃を受け、破却された「寬正の法難」である。
F35 大谷を追われた蓮如は河内、摂津、近江守山など各地を転々、堅田のたどり着いたが、琵琶湖航行の幕府輸送船に海賊行為をしたかどで山門に焼き討ちされ(堅田大責め)、1471年4月(文明3)、山門の手が及ばない北陸に向かい、同年7月越前吉崎に腰を据えた。これ以後4年に亘る布教拠点吉崎御坊(加賀国、照西寺蔵)である。
 蓮如が「御文」を布教手段に用い出したのがこの頃である。蓮如の教えは明快である。「一心に弥陀の救いを信じ、たのむ気持ちが起これば、その時点で救いが約束される(信心決定)。念仏を唱えることによる救いを求める自力念仏は排され、臨終時の弥陀来迎を仰ぐも念仏も不要」とされた。信者は「生前の信心決定で既に極楽往生は約束されている」とする。
 これらの教えを仮名交じりの平易な文章で誰にもわかるように説き明かしたのが、蓮如の御文である。現在知られているだけで二百数十通に及び、精選に精選を重ねたもので、蓮如の全思想と言われる。坊主や信徒の布教活動の際のテキストとし、親鸞の教えが誤って伝わらないようにしたものとも言われる。

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