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2013年7月29日 (月)

争乱の戦国史31 (室町Ⅱ21): 嘉吉の徳政一揆

 1441年8月、将軍義教暗殺事件と前後して、一揆衆が京都周辺を封鎖し、酒屋・土倉(金融業者)を襲うという大一揆が勃発した。
 この一揆は京都に集中し、8月末頃、近江で馬借(運搬業者)の不穏な動きがあり、ついで清水坂辺りで一揆と近江守護兵の小競合い、9月初めには坂本・三井寺近辺・鳥羽・伏見・嵯峨・加茂と、京都周辺の各地に一揆が活動を始めた。9月5日には一揆は16ヶ所に分かれ、京都の7つ口他全ての出入口を固め包囲した。
F31_2 この一揆は京都周辺の農民たちが大挙蜂起した上、京都出入口を組織的に押え、酒屋・土倉を襲い、阻止しようとした幕府軍と戦った。土蔵や金貸しをしていた大小寺院も襲れ、借書は焼き払れた。
 そして一揆は決して烏合の衆ではなく、地侍による指揮に従い戦術面でも組織性が見られ、極めて計画的な一揆であった。幕府側がこの勢いに押され、土民或いは馬借だけに徳政を認めようとした時も、一揆側は公家・武家にも適用される「一国平均」の徳政令を求め、譲らないという計画性を示した。(:嘉吉徳政一揆分布図
 (図は「詳説日本史図録(第5版)山川出版社」より)
 対して幕府や酒屋・土倉の足並みは揃わなかったが、子に一揆は守護大名畠山持国の工作によるものとする見方がある。この頃、三管領の中で、細川持之と畠山持国は激しい勢力争いをしていた。そして8月、畠山持国は領国の河内~から兵を率いて入京した。勿論細川へ圧力をかけ、勢力回復のためであり、一揆はまさにこの行動の一環で、山城の国人・地侍が畠山の指示によって一揆を組織したというのが通説である。9月12日、一国平均の徳政令が発布され、一揆の目的は蜂起からわずか半月で達せられたのである。
 尚この一揆で、注目すべきは村の合力である。広範囲の村々を結ぶ合力のみならず、他村に対し或いは領主に対し合力を求めたことである。惣村は強い軍事力を持ち、それを背景に、領主層と対等に近い同盟関係を結び、幕府も村々の軍事力を無視しえなくなっていた

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