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2013年7月23日 (火)

争乱の戦国史29 (室町Ⅱ19): 嘉吉の乱ー将軍暗殺

 6代将軍・義教の頃。九州や東国は未だ辺境と言われ、幕府にとって東国の争乱は第二次的であった。関東公方が独走する根拠だ。しかし、永享の乱、結城合戦の動乱は直ぐに中央の幕府内に影響し動揺を与えたのである。その証が、東国動乱後やっと鎮まった矢先、将軍が暗殺される事件・嘉吉の乱が勃発したことである。
 1441年6月24日(嘉吉元)、京都、摂津・播磨守護・赤松満祐邸戦勝祝を兼ね、将軍義教を迎え猿楽鑑賞の宴が盛大に催された。勿論、管領細川持之以下、畠山、山内、京極ら諸大名も参席していた。
F29 宴たけなわの頃、突如奥の方から雷鳴の如き轟と歓声が起こり、後ろの障子が開き大刀を振りかざした武士数人が将軍に斬りかかった。義教はひとたまりもなく斬殺され、京極、山名も殺され大内も傷ついた(後日死亡)。管領・細川持之は辛くも脱出したが、暴走を取押さえ様とする者や追っ手を差し向けようとする者も居なかったという。(義教の首塚(安国寺))
 張本人は他ならぬ祝宴主人役・赤松満祐その人だった。満祐は義教の首級を上げるのが目的であり、生き延びる積りもなかった。ところが討手の気配もなく、夜でもあり、気が変わり、可能な限りの抵抗をしようと、邸宅に火を放ち、自分の領国播磨に下ったのである。一方、幕府は翌々日になってようやく会議を開き、義教の遺子・千也茶丸(義勝8歳)を後継と定め、赤松追討の軍略を練った。
 しかし、赤松追討軍の出発は手間取り、事件後10日余り後のことだった。追討軍は侍所別当・山名持豊の軍勢を中心に編成。7月28日京を出発し、丹波・但馬路を進み、この地方の国人も山名軍に合流9月5日播磨の書写山の坂本の到着、堀城を攻略。遁れて揖西郡・木山城に籠った満祐を攻め9月10日陥落。逃げ場を失った満祐は弟・義雅らと自害し、嫡子・教康も伊勢で殺され乱は終わった。赤松遺領は戦功者に与えるという評定会議の決定が功を奏したのである。又、この乱の結果、後花園天皇による幼少将軍に成り代っての幕府支配が強まり、同時に幕府権威は失墜していった。尚赤松満祐反乱の原因は所領分配で、赤松家惣領が貰うべき摂津小屋野が与えられなかったことといわれる。

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