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2013年7月19日 (金)

騒乱の戦国史28 (室町Ⅱ18): 結城合戦

 1440年3月(永享12)、下総の結城氏朝が前関東公方・足利持氏の遺児・安王丸、春王丸を擁して挙兵した。結城合戦の始まりである。将軍・義教は挙兵1か月後追討令を発し、10万人の大軍を東下させるが、直後に義教は突如一色義貫と土岐持頼を、大和の陣中に謀殺した。
 一色義貫は持氏の残党を分国三河に匿った罪を問われたもので、遺領の丹後は近習の一色教親に、若狭は近習・武田信栄に、三河は近習・細川持常に与えられた。又、土岐持頼は伊勢国人・長野氏に討たれ、遺領の伊勢半国は一色教頼に与えられた。有力守護を滅ぼし、近習を守護に取り立てるという義教の意図が明白となる事件であった。
F28_2 同年6月、篠川御所足利満直が結城氏朝と結んだ石川持光に滅ぼされ7月には上杉清方・持房・教朝(関東管領家)が結城城を囲んだ。籠城軍はわずか「侍5百騎」と云われたが、慎重に対処し、長期包囲網戦術をとったので、食糧が途絶えて、翌1441年、年号は永享に変わり、4月結城城は陥落し、結城氏朝・持朝親子が敗死し、捕縛された足利安王丸、春王丸同年5月京への護送中、美濃垂井で斬殺された。(結城合戦絵詞の一部
 戦勝ムードに沸いた京都だったが、その間にも義教守護弾圧を続けた。正月に管領・畠山満家の嫡子・持国が関東への出陣を拒否し、弟の持永が畠山家の惣領となり、6月には加賀守護・富樫憲家が上意に背いて出奔、醍醐寺三宝院の稚児であった弟の泰高が還俗して家督を継いだ。
 こうして、幕府軍の全面勝利で関東支配の実権は再び関東管領・上杉憲実の手中に落ちたのである

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