« 囲碁ゲームで特訓中 | トップページ | 番外編 追い山笠奔(ハシル)る! »

2013年7月15日 (月)

騒乱の戦国史27 (室町Ⅱ17): 永享の乱

 前回の山門騒乱の通謀があったか、関東公方・足利持氏1434年10月頃、守護今川家の相続問題で揺れる駿河に軍事介入するため、篠川御所・足利満直に圧迫を強めた。翌1435年正月には持氏の三河国人勧誘が発覚し、京都・鎌倉の関係は悪化したが、関東管領・上杉憲実の制止で持氏は出陣を思いとどまった。
 しかし、持氏と憲実の関係は悪化し、1438年6月持氏は嫡子・賢王丸元服の際、届無視を咎めた憲実の諫言を無視し、幕府に無断で元服させ義久を名乗らせた。同8月憲実は鎌倉の屋敷を出奔し、分国上野に降り、持氏は憲実討伐のため武蔵野高安寺に出陣。将軍・義教は駿河守護・今川範忠、篠川御所足利満直らに憲実合力を命じ、又上杉弾秀の遺児・持房、教朝を大将に幕府軍を関東に派遣した。永享の乱勃発である。
 当時、義教の弟・大覚寺義昭(義持後継候補だった)が大和天川に挙兵。反幕府勢力を結集しての挙兵で、幕府軍は釘付けとなり、漸く9月に斯波・一色が関東に向かった。
F27 幕府軍10月鎌倉に進攻し、11月には上杉憲直・一色直兼等、持氏主力の武将を討ち果たした。持氏・義久親子の出家、赦免願い及び上杉憲実の使者による助命嘆願もあったが、義教はこれを許さず、二人の追討を憲実に迫ったが、憲実はためらい続けた。従って、翌1439年閏正月には京都勢による持氏追討案が具体化。追い詰められた憲実は遂に持氏を鎌倉永安寺に攻めて、持氏、叔父の稲村御所・足利満貞を自刃させ、後義久も報国寺で自刃して永享の乱は終わった持氏自刃の図
 罪の意識に苛まれた上杉憲実は剃髪し、持氏墓前で自殺を図るも家人に止められ未遂に終わる。その後、家督は弟・清方に譲り伊豆国清寺に隠棲した。

|

« 囲碁ゲームで特訓中 | トップページ | 番外編 追い山笠奔(ハシル)る! »

戦国時代」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/534272/57794594

この記事へのトラックバック一覧です: 騒乱の戦国史27 (室町Ⅱ17): 永享の乱:

« 囲碁ゲームで特訓中 | トップページ | 番外編 追い山笠奔(ハシル)る! »