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2013年7月11日 (木)

争乱の戦国史26 (室町Ⅱ16): 山門(延暦寺)の騒乱

 1431年、前将軍・義持の妻・日野栄子の死により、前将軍の呪縛から解放されたが如く、6代将軍・義教は持病のせいもあり、その凶暴性が増したといわれる。が、これは義教の暴走を抑えてきた管領・畠山満家の逝去1433年9月の影響も大きい
 満家に続き、翌月後小松法皇、12月管領・斯波義淳まで死去した。
 こうした義教政権を支えた宿老に代り発言力を強めたのが、管領就任の細川持之と、越智・箸尾征伐で信望暑厚い前侍所・赤松満裕である。この細川持之の管領就任後間もなく勃発したのが永享の山門騒乱である。
F262_2 事の発端は、1433年(永享5)7月山門(比叡山延暦寺)が光聚院猷秀(コウジュウインユウシュウ)不正を訴えて起こした嗷訴(ゴウソ)である。延暦寺の下級僧侶・猷秀は手広く金融業を営み、義持の寵愛を受け、権勢を誇る北野松梅院禅能の所領を借金のかたに手に入れたほか、同じ山徒にも多額の貸し付けを行い恨みを買っていた。山門は、その猷秀を修造費横領と不当な高利貸し活動をした廉で訴えた。山門は猷秀の斬罪を主張し、便宜を図ったとして近習・赤松満政(播磨守)と山門奉行・飯野為種の二人を糾弾した。将軍義教と義教の鎧・兜
 嗷訴に激しい嫌悪感を持つ義教は、当初山門討伐の姿勢を強く見せたが、諸大名のとりなしで、嗷訴首謀者の断罪を条件に猷秀と飯尾為種の流罪を認めた。こうして、嗷訴は一旦終息した。が、畠山満家の死後、山門は再び強訴に及んだものの、間もなく首謀者が降伏してその年は平穏に暮れた。ところが、翌1434年5月頃から、山門と関東公方とが通謀しているとの噂が広まり、義教は山門領が集中する越前・若狭・近江3ヶ国の守護・守護代に命じ国内の山門領を押領させ、又山門領年貢3分の1を住民に給与し、山門の経済封鎖をした。
 その間、近江守護・六角満綱は近江南半を制圧し、一部の村は六角氏の徴発に応じ、野伏(傭兵)を提供した。10月には義教は山門神輿の入洛に備え守護勢を配置。又京都近郊の村の山門勢の攪乱も命じた。このように幕府や守護が本格的に村の軍事力を動員し始めたことは、注目されるところで、村の軍事力を如何に味方とするかが大きな関心事になってゆく

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