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2013年7月 7日 (日)

争乱の戦国史25 (室町Ⅱ15): 海賊衆(倭寇)の跋扈

 倭寇は鎌倉時代の中頃から高麗(半島)の沿岸各地に侵入し、主に米や人間の略奪を繰り返した。彼らの活動が最も激しかったのは1470~80年代で、倭寇は高麗の首都・開城付近まで攻撃し、甚だしい時で兵船4百、兵数3千とまで言われるほどの大規模集団であった。何故この様なことが起きたのか、ここで見ておこう。
 この時代を100年ほど遡った1368年、我が国が南北朝の最中の頃、大陸では朱元璋が明朝を立て大帝国建設をめざし、周辺諸国の入貢をうながした。足利義満が朝貢形式の対明国交を開いた時である。
 明は宋や元と異なり、貿易船は歓迎せず鎖国的政策により、アジア諸国間の貿易密貿易・中継ぎ貿易の形となった。南蛮諸国が新しい市場を求め、琉球、朝鮮、日本を訪れ、逆に日本からも南方へ進出した。
 こうして日本・朝鮮・琉球が新しい結びつきを持ち始めた頃、夫々が新しい政治体制を作り上げつつあった。日本で1392年、足利義満が日本国王を称した時であり、半島では高麗王朝が倒れ、李氏朝鮮を建国した。そして琉球尚巴志が中山王に封ぜられ、1429年には三山の全島統一を果たし、琉球国となった。
F25 この時期倭寇は図示の海域で活発に活動していた。これらを朝鮮は「三島倭寇」と呼んで恐れていた。即ち、壱岐・対馬及び松浦地域に拠点を置き、海賊活動を行っていたのである。彼らの構成は、倭人の他、半島人、中国人、南方アジヤ人など、混合民族が彼ら特有の言語を話したといわれる。
 尤も、当時の海賊は後年の海賊とは異なり、交易に近い活動も行った。確かに日本の海上活動者の上層部は豪族的海商が居り、下層部には極貧の海賊がいた。これらは明白な区別もなく、海賊衆は船持の豪族で且つ商人であった。特に水上航路を抑え関銭を取ることから海賊視されていることが多く、陸上の関所を設けた荘園領主や守護・国人領主とかわらないのである。
 瀬戸内の海賊の中心地・倉橋島は当時造船の中心地であり、遣明船にも使われ、1434年(永享6)の遣明船帰朝には幕府は伊予・周防・備後の海賊衆にその警護を命じている
 こうした中で、太祖(洪武帝)は日本に倭寇の禁圧をも求めた結果、倭寇活動は徐々に鎮静化していったのである。

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