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2013年6月

2013年6月30日 (日)

夏の花々Ⅲ

 今朝、明け方まで降っていた雨も朝には止んだので、いつも通りウオーキングしてきたが、やはり梅雨の真っ只中。最近青空を見たことが無い。野草の類も今は咲いてない。そこで今日は艶やかに咲いている赤いトロピカルな園芸花を撮ってきた。
Photo サンパチェンス(Sunpatience)。Sun(太陽)+patience(忍耐)から来た名前とか。インパチエンスの園芸種で、暑い日差しの中でも咲くようにとサカタが交配で開発した花で、長期(初夏~秋)に咲く。二酸化炭素、二酸化窒素、ホルムアルデヒドなどの吸収力の強い環境浄化植物として注目されている由。
Photo_2 サンパラソル(Sun-parasol)。最近この鉢植えを置いている家が増えた。半日以上日が当る処が良いそうだが、余り強い陽射しには弱いそうだ。蔓性なので、朝顔の要領でフェンスにも這わせる。花期は5月~10月。最近は白、桃色などもある。南米原産。
Photo_3 ハイビスカス(Hibiscus)。原産地不明ながら、ハワイに持ち込まれて広がった由。アオイ科フヨウ属で、その中の代表種がブッソウゲ(仏桑華)と呼ばれる。鹿児島以南沖縄まででは草叢で殆ど年中咲いている感じ。花色は白、桃、紫紅、赤、橙、黄と多種ある。

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2013年6月29日 (土)

争乱の戦国史23 (室町Ⅱ13): 播磨国一揆

 正長の大一揆の翌1429年9月(永禄元)、今度は播磨国一揆が勃発した。だが、正長一揆のような徳政を要求するのではなく、国人の下克上農民一揆が連携して、守護赤松満祐将兵に国外退去を要求した政治的なものである点が異なる。
 赤松満祐は山城・播磨・美作・備前の守護だった。尚、国人とは外部より赴任の武家ではなく、土地の生え抜きの土着的武人達である。この一揆では守護側の将兵が、国人と農民の連合軍に敗北した。
 守護赤松氏も、西播磨・佐用荘の地頭から身を起した国人であり、鎌倉以降大きな同族集団を形成した。そして同様の段階を経て成長した国人たちを一揆に組織し、被官にしたのが力の源泉だった。
 しかし中には、赤松氏の被官になるのを嫌い、播州平野の経済的に発展した地域で、守護の力を利用して、荘園の年貢差し押さえや土地横領をしたり、時には一揆を結んで守護に対抗した。

 上記播磨国一揆は反赤松国人衆が主体となって、農民一揆衆と提携して成立した。独立を目指した国人衆だから、守護に服従することなく、自由に動き変化した。守護にとっては味方にも敵にもなり得る武士階層の出現で、下剋上の始まりである
 このように室町時代の一揆には経済的要因による徳政一揆、土一揆領有権・支配権争いによる一向一揆、国一揆があり、以降頻発する。これら一揆の違いを略記して置く。

A:経済的要因による一揆
徳政一揆
土一揆の内、主に徳政(借金返済免除など)を要求した一揆。貨幣経済が進展した畿内で、土倉・酒屋を襲って、借金証文を焼くものと、幕府や守護に徳政令の発布を要求するものがあった。
土一揆:農民、馬借、都市庶民が、
年貢・夫役の減免及び徳政を要求して起こした。畿内を中心に拡大していった。
B:領有権・支配権争いの一揆
一向一揆一向宗(浄土真宗本願寺派)が
既成宗教勢力の圧迫に反抗して起こした一揆。後に守護、戦国大名と対立する。
国一揆
国人、地侍が地域的に連合し、守護支配に反抗しての一揆。経済的要求より権力、領有権争いの要素が強い。

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2013年6月28日 (金)

夏の花々Ⅱ

 今日も曇り空で蒸し暑い。雨は降らぬが、典型的な梅雨の気候。昨日から福岡三大祭りの一つ「山笠」「飾り山」の飾りつけが始まった。山笠は7月1日から15日まで、博多の街は祭りに浮かれる。飾り山を散見すると夏を実感する。今日も咲き始めた夏の花。
Photo キンケイギク(金鶏菊)。別名コレオプシス(Coreopsis)。北米原産。園芸種として明治時代に渡来し、今は野生化している。金鶏鳥という鳥に見立てての名。開花期は6-9月。近縁種の「オオキンケイギク」はこれより一回り大きく、雑草化し繁茂するので栽培禁止となっている。
Photo_2 フウセンカズラ(風船葛)。小さな花と風船状の果実が同時につている。北米南部原産。最近フェンスなどに巻き付かせているのをよく見る。径3cm弱の果実中は3つの部屋に仕切られ、ホオズキのような実が1個ずつ成る。南側の部屋の日除けにしている場合もある。
Photo_3 ヘブンリーブルー(Heavenly blue)。西洋朝顔とも言われる。朝顔そっくりの花を昼咲かせる昼顔。花期7-11月と長く、花が萎れず、爽やかな青色が好まれ、朝顔代わりに使われだした。

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2013年6月26日 (水)

夏の花が咲いている

 昨夜来の雨、明け方には相当強く降ったが、今(9時過ぎ)、ようやく止んだ。長時間降れば昨年の筑後川河畔の水害が未だ癒えぬ処の被害が大きくなるところであった。梅雨時期必ず豪雨となるのが常態となった温暖化の影響かな。今日は咲き始めた夏の花
Photo_2 インドハマユウ(印度浜木綿)。彼岸花科。正しくはアフリカハマユウ。本当のインドハマユウは花弁の真ん中に濃いピンクの縦筋があるそうだ。別名ポウウエリー。原産地はインド。百合との違いは太い茎の先端から沢山の花茎が出て、葉が肉厚。昭和初期に日本に渡来。花期は6-8月。
Photo_3 デュランタ(Duranta repens)。別名ハリマツリ。北・中米原産で明治中期に渡来。花期は長く4-10月。花径1cm程の花を房状に咲かせ、後粒々の果実を沢山付ける。濃い青紫色の花びらに白い縁取りがある”タカラヅカ”が人気の由。名前は16世紀の植物学者:C・デュランテスに因む。
 Photo_4
 下カンナ(Canna indica)。別名ハナカンナ。特に珍しくもないが、この花アスファルト道路と電柱わずかな隙間から生えあがり、こんな立派な花をつけているのに驚き、敬意を表して掲載。熱帯アメリカ原産。江戸中期に渡来。花期7-10月。カンナ属だけで50種ある。

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2013年6月25日 (火)

争乱の戦国史22 (室町Ⅱ12): 大名意見制と将軍権力低下

 6代義教の頃、将軍は武家の頭領だが、上意下達により大概の事案を迅速に決定処理した訳でなく、大名取次制と大名意見制という決定処理システムが存在した。
 先ず大名取次制。当時将軍と地方の守護・国人とを取り次ぐ役割の幕閣を取次とか申次と呼び、相手と交流があるか、幕閣の同族などの有力守護が務めた。
 これら取次の機能は、基本的には将軍と地方守護・国人との交渉・意思伝達であるが、御内書や管領奉書の副状添付、補足説明の使者派遣、将軍への返事の仕方、贈物の指導など、言わば根回し役でもあった。但し、義教後期には有力守護の手を離れ、近習赤松満政のもとへ収斂したという。
 次に大名意見制。取次はロビイストで政策決定者ではない。政策方針の決定はもとより評定衆(幕閣である管領や有力守護大名)による評定会議によったが、徐々に会議は減り、在宅諮が一般化し、大名意見制とも言うべき形に変わった。即ち評定衆や奉行人の内談や大名同士の意見交換もなく、代りに夫々より意見状が提出された。然るに、幕府の意思決定は幕閣の全会一致が原則のため、大名意見状が将軍に対する強い拘束力を持津結果となった。
 もし反対意見があれば、そん理由を詳しく聞き、将軍が反対者を説得して、原案を修正して、賛成へ誘導した。。これは横の連絡を絶ち個々に攻落してゆくので、結果的に
将軍専制化につながり、前代将軍よりはるかに徹底した専制君主になった。
F22
 大名意見制に参加できたのは、三管領と京極家を除く四職家の三家、それに三管領家の庶子から二名の8名の構成だった。そして内々に意見を調整する役目を三宝院満済(義満の猶子で僧侶)が受け持った。(三宝院満済画像)
 このような政策決定では、管領に就任する意義は薄れ、公式行事に出費も多く、管領就任を忌避する動きが出てきた。結果足利に次ぐ高い家格の斯波家が没落した。その原因は義満が公家社会にデビューし、公武権力の一体化が実現し、将軍はもはや武士の味方でなく、守護勢力の支持を失い、守護大名を強大にしてゆくのである。

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2013年6月24日 (月)

都議選 自公全勝

 

都議選自民は過去最高議席を抜き59人が全員当選、公明も全員当選で与党82に対し、非自公は45の結果に終わった。参院選前哨戦として自公は意気高らかであるが、果たしてどう影響する? 昨夜来の雨も上がり薄日が差してきた。今日は今時期少ない草花。
Photo タイトゴメ(大唐米)。マンネングサの一種。マンネングサ属は約400種、その内日本には17種が自生。前回(5月6日)掲載したメノマンネングサより小さくて、園芸種としてよく売られているもの。葉が3-7mm、花径1cmほど。乾燥、高低温に強く、最近は屋上緑化に適していると注目されている由。
Photo_2 ヤブガラシ(藪枯らし)。繁殖力旺盛ゆえの名だが、これより強く木を枯らすつる植物は沢山ある由。別名貧乏葛。貧乏家に生えるとか、これが生えれば貧乏するとか諸説ある。この花、蜜が豊富蜂や蝶などがよく集まる。花も嫌われる割に清楚な感じではある。東南アジア全域に自生する強い草。
Photo_3 メドウセージ(Meadow sage)。実はサルビア・ガラニチカが日本ではメドウセージとして広まってしまった由。(本来のメドウセージはサルビア・プラテンテイスという)。花期は4-8月。蛇が口を開けた感じの花の形が気味悪いが色がいい

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2013年6月22日 (土)

漸く雨が上がって

 梅雨前線に4号台風が乗っかり、2日間降り続いた雨も漸く止んだ。この近辺の残り少ない田圃では今、田植えの時期。今日明日の休日(土、日)家族総出で田植えをやってる模様。勿論田植機だから、手伝いは軽トラでの苗運びやおやつの準備程度の様子。今日はそんな梅雨時期の木の花。
Photo サンゴジュ(珊瑚樹)。別名ヤブサンゴ。切り口から泡が出るそうで、アワブキとも言う由。珊瑚は赤い実が付くことからの名前。7、8月頃から着く実の方がきれいだ。これは公園の木だが、庭木、生垣に使われている。葉が厚く燃えにくいので、昔から防火用に生垣に使われたケースが多いという。
Photo_2 コノテガシワ(側柏、又は児の手柏)の。花は早春に小さい花がつくが、この実の方がも見応えがある。この木は私は子供の頃「ヒバ」と呼んでたが、正式にはコノテガシワという。最近の洋風の家の庭には3m位の樹が植わっているのが多い。病害虫に強いのが理由らしい。
Photo_3 下アオギリ(青桐、又は梧桐)? 「?」を付けたのは今一つ確信が無いから。近くの空き地に4m位に伐り詰めた青桐が3本あるが、それに花がついてなく、側の切株から芽を吹いた1m位の側枝についている花である。青桐は家具や建具に使われる材なのだが・・・。 

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2013年6月21日 (金)

争乱の戦国史21 (室町Ⅱ11): 正長の土一揆

 1428年正月(応永35)、将軍継嗣直後から南朝後胤・小倉宮の出奔、関東公方・足利持氏の敵対、称光天皇の崩御と相次ぐ難題に義教は直面した。その時、正長(ショウチョウ)の徳政一揆が勃発するのである。後に頻発する徳政一揆の始まりである。
 未だ、将軍宣下を受けてない義政は窮地に立ち、自筆書状で西国大名・大内盛見の上洛を促し、翌年大内勢が上洛。間もなく伊勢国司・北畠満雅の敗死で当面の危機は去ったので、翌1429年義教は待望の将軍宣下を受け、実名を義宜から、義教に改めた。
F21 徳政(=税免除)を求めたこの土一揆は前年から天候不順で不作の上、得体のしれないい疫病が蔓延し、社会不安が高まっていた時、近江の坂本、大津の馬借らが、徳政を求めて蜂起したものだ。一揆衆は方々の借金先を襲っては証文を奪い、焼き捨てた。近江、山城辺りは、どこの寺院でも年貢の取立てばかりか、年利6~7割2分の高利貸しをやっており、一揆衆にとっては格好の攻撃目標だった。正長の徳政令
 大乗院尋尊の「一天下の土民蜂起す」なる記録には「徳政と号し、酒屋土倉寺院を破却せしめ、穀物等ほしいままにこれを取り、借金等悉くこれを破る。管領これを成敗す。日本開闢以来、土民蜂起これ初め成り」とある。

 その後、近江から山科、醍醐に移った一揆は、京都市中で荒れ狂い9月下旬から11月にかけて長期に亘り蜂起を繰り返した。その内、守護大名の手の者が便乗して略奪に出る者が現れた。ここに至り、幕府は「一揆禁止令」布告する。
 それでも収まらず、一揆は奈良にも飛び火し、僧体・俗体の「悪党」どもが西大寺近辺で気勢を上げ、奈良海道往還の馬借達も木津近辺から侵入し数千人規模の集会をなし、大寺院中心の荘園領主の心臓部を脅かした。幕府の侍所、寺院お抱えの国人衆が一揆に対決し、鎮圧したという。

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2013年6月20日 (木)

梅雨に咲いている外来種の花

 昨日、梅雨前線は山口、山陰、北陸地方に大雨をもたらし、水害も発生したが、当地福岡では田植を控え水不足が心配されていたが、昨夜から今朝まで降り続けた雨は、正しく『恵みの雨』となったようだ。そんな梅雨時期、草花の類は減少し、今時期目に付くのは外来種が多いので、今日はそれを紹介。
Photo アガパンサス(Agapanthus:学名)。別名ムラサキクンシラン(紫君子蘭)。南アフリカ原産で、明治中期に渡来。園芸種は300種以上と云われ開花時期、草丈は種々。花色は紫、青紫、白など。君子蘭に葉が似るが、全くの別種。多年草なので、5年間位は毎年同じ場所に咲き続けると云われる。
Photo_2 ランタナ(Lantana:学名)。和名はシチヘンゲ(七変化)。花の色が次第に変わってゆく故の名前。南米原産で、日本には小笠原諸島、沖縄諸島に移入分布。今は全世界に帰化定着。種が有毒で、噛み砕く哺乳動物には毒だが、種子運搬をする鳥類には無毒。花色と言い、神様は手の込んだ事をしている
Photo_3 アベリア(Abelia:属名)。アベリアはツクバネウツギ属の総称。この花はハナツクバネウツギ、ハナゾノツクバネウツギなどと呼ばれるもの。花期が春から秋までと長く、公園や道路脇の生垣として使われる。香りも強く、花の少ない夏期に蜂や蝶が集まる。最近はこの薄紫の『エードワード・ゴーチャ』が多い。

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2013年6月19日 (水)

梅雨最中の花

 台風4号の影響と梅雨(梅雨前線)のせいで、やや風が吹き、雨雲に覆われて蒸し暑い。典型的な梅雨の天候だ。だが、昨夜の天気予報が70-80%降雨だったに拘わらず、肝心の雨が降らない。こんな気候では、木の花も痛み易い様で生彩が無い
Photo ナンテン(南天)。実を観賞するが花を愛でることはなかろうから、敢えて掲載。房状の全体白っぽいことはよく御存じだろうが、それは蕾。開花したのは写真の様に白い花の中に黄色い蕊が出た状態。ナンテンの葉はシアン化水素と言う猛毒をごく微量含む故、防腐剤代わりに弁当などに葉が入れられる
Photo_2 八重のクチナシ(梔子)。一重は掲載済みだが、それに遅れること約3週間で、八重が咲き始めた。一重よりやや大きく(花径4cm位)一斉に蕾が開き始めた。これも匂い消しに公衆トイレの近くに植わっているもの。本当に日本人は花を見るだけでなく上の南天やこのクチナシの様に生活入りこんでいる
Photo_3 キョウチクトウ(夾竹桃)。花が桃に、葉が竹に似ている故の名前。花色は白、黄もあるが白は一重のみ。今頃から真夏まで咲続けるが、先日来の雨に打たれ傷んでしまった。この木は公園などによく植えられるが、葉には経口毒性がある故、幼児を遊ばせるには要注意

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2013年6月18日 (火)

争乱の戦国史20 (室町Ⅱ10): くじ引き選任の6代将軍

 1423年(応永30)に義持は将軍職を実子の義量(ヨシカズ)に譲ったが、病弱のため1425年(応永32)、19歳で没していた。義量には子が無く、父義持にも義量以外に子が無く、後継者問題は深刻な政治問題であった。それでも、前将軍である父義持が健在である限り、問題は表面化しなかった。
 ところが、1428年(応永35)義持が風呂場で転倒し、尻の傷を悪化させ起居もままならず、幕閣たちは後継者指名を求めたが義持は答えず、三宝院(畠山)満済(管領・満家の父)に説得を依頼した。しかし、実子がいないこともあり、「面々で相計らい、然るべく決定せよ」との答え。仕方なく満済が「幸い御兄弟4名おられますので、ご兄弟4人のお名前を「くじ」にして八幡神前でそれを引いて決定しては如何か」とくじ引きの選択を迫り、義持もくじ引きまでは同意するが、引くのは自分の死後にせよと条件を付けた。

 義持がくじ引きに同意したのは、くじが元々神託の一種で引き当てたくじは神慮だと考えていたからとも言われる。元々、15世紀家督相続に於いて父親の指名権が揺らぎ、主君を決定するのは家臣の支持であるとの家督相続の論理が進出してきた。
 この論理は下剋上の思想的根拠となり、やがて応仁・文明の乱や戦国大名の成立に大きな影響を与えたという。
F 満済の報告を聞いた幕閣たちは義持の死後では遅すぎる。遺言には背くがくじ引きは生前に行い、それを開けるのは死後に行う事に決めた。4名の名前を書いた4通のくじを管領・畠山満家が石清水八幡宮へ持参し、神前で一通だけ引いて17日深夜に持ち帰り、義持が翌18日に亡くなり管領以下諸大名が一堂に会してくじを開いた
 結果、義円の名前「青蓮院」が記されており、義円に伝えたところ型通りの辞退の後これを受け入れた。義円は還俗して義宜(ヨシノブ)と改名し、1年後1429年3月12日(生長元)、将軍宣下を受け、義教(ヨシノリ)と改名して6代将軍となった。

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2013年6月17日 (月)

ちょっと変わった花も咲き競う

 昨日から快晴で青空に夏雲が浮かんでいる。草花も樹木も夏の花が競い咲き夏だね~、と言う感じ。今日は昼間が暑くて出歩けないので早朝に歩いて見掛けた花々
Jpg アメリカノウゼンカズラ(亜米利加凌霄花)。蔓性の花木。花径4cm前後、花長は筒場で8cm前後で横向きに突き出ている。余り見掛ける花ではなく近辺ではここだけに毎年咲くので調べたら、アメリカより渡来の凌霄花と判った。これから咲く凌霄花とは花も葉も異なるが、近縁種のようだ。花色は黄色もある由。
Photo アカンサス(Acanthus:学名)。ご覧のように生垣から一本だけ出て花を付けていた。園芸種の花が庭先に放置され、花を付けたものか。地中海原産で、ギリシャの国花だそうだ。ハアザミ(葉薊)属の一種で、日本には明治~大正期に観賞用に移入した「Amollis」である。筒状の花弁が沢山付いている。公園の花壇などでも見掛ける花だろうが、一本だけこのように出ていると、「何だ、これは?」とつい撮ったもの。

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2013年6月15日 (土)

又もやきな臭くなってきた中東

 米政府は、内紛が続くシリアでアサド政権が反体制派に対し化学兵器を使用したと断定し、反体制派に軍事支援を行うと発表した。これを懸念したロシアは反発し、内戦のエスカレートを懸念している。又、EUでは反体制派への限定的な武器供与で合意し、英、仏はすぐにでも武器を送る用意を表明している。唯、7月に再度武器禁輸を討議することを条件に、武器供与を決めた経緯があり、反対派の北欧と英仏が対立、共通外交路線が崩れる可能性もあると報じられている。
 シリア内部でも、アサド政権は「化学兵器使用はうそだ。反体制派への武器供与の口実だ」と反発し、一方反体制派も、「最新兵器でないと意味がない」と慎重な見方をし、反体制派の国際平和会議への出席を促すための工作だとの見方もある。いずれにしても予断を許さない状況になって来つつあるようだ。今日は夏の白い木の花
Photo ギンバイカ(銀梅花)。花が結婚式によく使われるので、「祝の木」の別名がある。径2cm程の小さな花だが、蕊を長く伸ばし愛らし花だ。を揉むと芳香を放つので「マートル」の名でハーブとして流通。地中海原産で明治に渡来。ブラシノキと同じ蒲桃(フトモモ)科の木で、花が梅に似ている故の名前。花期6-7月。
Photo_2 セイロンライティア。スリランカ原産でタイ経由で、園芸種といて渡来キョウチクトウ科の花で、花径3cm位の花。樹高2m位になり、庭木として広まっているようだ。花期は6~10月。

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2013年6月14日 (金)

争乱の戦国史19 (室町Ⅱ09): 赤松満祐の下国事件

  4代将軍義持最後になって大きな失敗をする。1427年9月(応永34)、赤松義則が没し嫡子・満祐が家督を継いだ。その仏事中陰の最中、義持は赤松家の本領・播磨を暫く将軍家領国として召上げ、義持の近習だった赤松持貞に預けたい旨、満祐に通告した。満祐は当然のことながら激しく抗議したが、義持の決心は固かった。
 観念した満祐は、同年10月26日家中の者たちと簡単な宴会の後、屋敷に火をかけ、播磨めざして下国した。
 室町幕府では、九州と関東公方管轄下の東国諸国、及び越後・信濃・駿河の国境諸国を除いて、守護は在京が原則である上、暇を乞わずに下国することは反逆を意味した。これを知った義持は満祐の短慮を責め、満祐の残りの分国備前・美作をそれぞれの一族の赤松美作守と伊豆守に与えると共に、山名時煕以下の諸大名に満祐討伐を命じた。これは義持の粗忽討伐かと批判された。この討伐命令は評定会議を召集せず、義持の一存で出されたものだった。これが満祐下国事件だ。
F_2 11月、赤松満祐が管領・畠山満家に書状で、義持へのとりなしを求めた。満家は義持に、三分国の内播磨一国を満祐に与え赦免してはどうかと提案したが、義持は返ってかたくなになり、満家の提案を一蹴した。
  ところが、事件の発端となった赤松持貞は女性関係をめぐる不行儀を訴えられた。これが、義持の逆鱗に触れ、訴えられた持貞は日ごろ親しかった三宝院満済(義教の政治顧問)に助けを求め、満済が持貞赦免を申し入れたが、応じなかった。そこで、満済は持貞を逃すべく、高野山とも連絡を取り匿う手筈まで整えたが、その直後、義持の使者が来て、持貞は切腹させられた。一方赤松満祐は赦免され、満家に付き添われ、義持との対面を果たした。
 有力守護と対立した近習は血祭りに上げられるのである。畠山氏は一門に対する惣領家の統率力が強く、満家はそのもてる力すべて駆使して満祐を救ったのである。確かに持貞は義持の寵臣ではあったが、左程の野心家でもなく、満家には満祐を救うためのスケープゴートに過ぎなかった。陰で動いた畠山満家の力も大きかったが、持貞への極刑を招いたのは、持貞処罰を神に誓った義持の極端な敬神のせいだったのである。

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2013年6月13日 (木)

成長戦略、具体策は先送り

 政府はアベノミクスの第三の矢「成長戦略」をまとめた。但し、その中の農業分野は、農業所得の倍増を掲げたが、そのためには農地集約による生産性倍増や農家と企業の連携により農産物の付加価値を高めることが前提で、その具体策は官邸内に設置した「農林水産業・地域の活力創造本部」が年内にまとめる戦略に先送りされている
 農地集約が戦略の目玉だが、10年間で全農地の8割を中核的農業経営者に集約させ、コメの生産コストを4割削減する。この目標に向け、都道府県単位に設置する「農地中間管理機構」が地域の広範囲の農地を借り、担い手にまとまった規模で貸出する制度導入する。と言う概念があるが、その具体策をこれから作らねばならず、多分に看板倒れになる懸念が強いようだ。特に農家の足腰強化につながる農地集約や戸別所得補償には巨額の費用を要するから、6兆円をつぎ込んで、成果が出なかったウルグアイラウンド対策の二の舞になるとの懸念が強いからである。最近の株価や円/ドル、又気温変動と何かと不安定な世情下、参院選対策ではない10年の計を樹立すべきであろう。梅雨らしく湿度が高く、曇天が続くが、まとまった雨は降らない。今日は梅雨時期の樹木の花
Photo クマノミズキ(熊野水木)。小さな花が集合して10cm前後の散房花序を形成している。近畿以西に多く、山地に自生。ミズキとの違いは葉が対生で、花期が約1ヶ月遅く6月。春に幹を切ると大量の樹液を出す故水木と称し、この種の発見地が熊野だった故の名称。これは自然木を残した公園の木。
Photo_2 フジウツギ(藤空木)。フジウツギは属名で、100種ほどの総称。日本にはフジウツギやウラジロウツギなど2~3種が自生。小さな花が10~50cmの円錐花序を形成。花序や花色が藤に似ている故の名前。園芸用にはフサフジウツギが良く栽培されている。

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2013年6月10日 (月)

老年期の意味

  昨日の毎日新聞の論説「時代の風」に「老年期の意味」なる文章が掲載された。日本の高齢者の人口比率が上昇し、高齢者の医療費始め、福祉費他の国家負担額の増加、即ち働く人達への負担が限界まで来ている。
  このような現実の中で、人類が高齢者を生み出した数万年以前からの人類の英知と努力を振り返り、その中での老人たちの必要性を説いている。曰く「老人たちは知識や経験を伝える為にだけにいるのではない。人類が集団で生活して行く上での危険や困難を咎め、別の時間を生きる老年期が必要だ。唯存在するだけでなく人間を目的的な強い束縛から救ってきたのが人類の老年期の存在だ(京大教授・山極寿一氏)」と。違った観点での老人論も一考の要有りと紹介した次第。今日は今頃咲いている山野の木の花
Photo  アカメガシワ(赤芽柏)。新芽が赤く、葉が柏に似ている故の名前。別名ヒサギ(久木)、ゴサイバ(五菜葉)など。本州以南、東アジヤに自生。空地などにすぐ生えるパイオノヤ植物。材が柔らかく床柱、下駄、薪炭に用いられ、樹皮は局方の生薬で胃潰瘍や胃酸過多に効く。若葉が和え物、おひたしになる由。
Photo_2   ネズミモチ(鼠黐)。別名タマツバキ。果実がネズミの糞に、葉がモチノキに似ている故の名前。暖地では自生してる。公園などによく用いられるがこれは民家の庭木。萌芽力が強いので生垣としても用いられる。材は道具類の柄、楊枝になり、果実は強壮剤とし、葉はおできの吸出しに使われるそうだ。

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2013年6月 9日 (日)

争乱の戦国史18 (室町Ⅱ08): 神人強訴の騒乱事件

 関東問題に一応けりがついた1424年6月(応永31)、幕府膝元の山城で、石清水八幡宮の神人(ジニン)(下級の神職)が社務・田中融清(ユウセイ)の解任等を求め、同社の薬師堂に引き籠る事件が起きた。
 要求不履行の場合、薬師堂に放火すると言うもので、諸大名も手を出せずにいたが、将軍・義持は彼らを京に呼び戻し、「薬師堂焼失すと言えども痛むべからず。唯神人責め殺すべし」と命じた。そこで大名たちは石清水にとって返し、石弓による激しい攻撃を加えたが、山上の神人たちと示し合せた彼らの妻たちの在家への放火により、諸大名の目の前で八幡市街が炎上した。その後も幕府軍は山上包囲を続けたが、7月に入り義持は遂に田中融清の解任を認めた。粘り強い神人の抵抗の前に幕府が敗北したのである。

 ところが、同年8月その八幡神人が京都で大量虐殺される事件が起こった。発端は八幡別当の若党による些細な打擲事件であったが、それを恨んだ神人たちは別当の解任を求めて大挙して義持の元に押し掛けたのである。
F 義持は八幡奉行・飯尾為行を通して訴えるように指示する一方、侍所京極高数と太田康雄の軍勢を飯尾邸に差し向け、神人を捕縛しようとした。ところが神人たちも浄衣の下には甲冑を帯びており、大合戦となりその場で、神人たち30数名が討たれ50名が生け捕られ、或いは処刑され、殆どが落命するという大惨事となった。
 けれど八幡神人の強訴が頻発し、石清水の放生会も彼等によって毎年妨害されており、義持の敬神に付け込んでの神人たちへの共感は得られず、同情の声は上がらなかったという。この反感が、強訴という訴訟形式を葬り去って行ったのである。

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2013年6月 8日 (土)

梅雨入りしたが雨が降らず

 気象庁は「梅雨入り『宣言』」はしないと言う。「梅雨入りした模様」としか表現しないそうだ。それ程梅雨入の見極めは難しいというが、田植を控えた農家にとっては死活問題だ。今年は全国的に雨不足というが、そんな年は猛暑になるという。その中で百合が咲き始めた。
Photo_3テッポウユリ(鉄砲百合)。百合の代表種はこの他、ヤマユリ、オニユリ、カノコユリ、オトメユリなどがあるが、これは、タカサゴユリに酷似する。タカサゴユリの方が、草丈、花共に大きく、花に薄い紫の線が入る特徴で見分けが付く。但し、現在は交雑種が多く判然としないことが多いという。
Photo_4ユリ2。これは園芸種、正式品種名がはっきりしない。
ヤマユリ、オニユリなどはユリ根を食用にする為栽培され又、オニユリやハカタユリは「百合(ヒャクゴウ)」という生薬になる。又、滋養強壮、鎮咳効果があり漢方に用いられる。花が観賞用になったのはシーボルトにより海外に広められてからという。
Photo_5ビワ(枇杷)。北部九州には枇杷農家も多い。普通の民家でも庭木として植えている家も多く、今年は沢山実が付いたが、小粒のようだ。カラスに取られない様この様に袋や網をかける家もあるが、全部を覆わないところが面白い、半分はカラスへのお裾分か

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2013年6月 6日 (木)

アベノミクス第3弾・成長戦略

 首相は昨日の講演でアベノミクス、金融緩和・財政出動に続く第3弾として成長戦について素案を示した。結果、10年で一人当たり総所得150万円増を謳い上げたが、講演開始後急速に上昇した株価が20分後下がり始め、終値で日経平均518円下げで終了
 東証株式市場は、この成長戦略第3弾の内容に失望した結果であると新聞は報じている。内容が手の付けやすい策ばかりで、全体的に小粒であるとの評価である。毎日・余禄では、池田勇人首相は「10年間で、所得倍増論」をぶち上げ、7年間で達成した。それとの比較で今回の成長戦略はどうなるか、アベノミクスの正念場だという。
 この方針に盛り込まれた構造改革や規制緩和は今後の色んな会議を通して、具体化を図ることになるが、現段階ではやはり参院選向けのアピールでしかないことを株価が示していると思う。
 政界が暑くなってきたが、気温も上昇。夏の花が咲いている。今日は白い花。
Photo  クチナシ(梔子)。先日来一挙に開花。花は白から黄に変わって行き、強い芳香を放つ。故ご不浄の近くに植えられることが多い。この花の果実は熟しても割れないところから「口無し」の名がついたという説がある。黄色の食用染料に利用される。東アジヤに広く分布。日本では静岡以西、南西諸島に分布。
Photo_2  カシワバアジサイ(柏葉紫陽花)。北米原産のアジサイ。花はアジサイと同じで円錐形の房となり、葉が柏に似ているところからの名前。花期は6-7月。葉は紅葉するので、最近庭木として多く使われだした。

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2013年6月 5日 (水)

争乱の戦国史17(室町Ⅱ07): 京都扶持衆と公方の対立

 禅秀の乱で公方・足利持氏を支援した幕府は、その後持氏への警戒心を強め、関東・東北地方の反持氏派国人たちを秘かに支援し、関東公方・持氏に対し着々と包囲網を構築しつつあった。この様に関東公方管国内でありながら、京都の幕府と通じ、関東公方を監視・牽制する役を担った国人たちを京都扶持衆と言ったが、中には禅秀の乱に関与し、持氏から圧迫を受けたものが多い。
 陸奥では伊達・白河・葦名・岩城、常陸では真壁・大掾、小栗、下野では宇都宮・那須、甲斐では武田などが代表的な京都扶持衆であった。又、常陸・佐竹、下総・結城など惣領家が親持氏派であった諸家でも対立する庶子家を幕府は支援し、扶持衆に加えた。
F  幕府はこの中で、扶持衆の盟主として、又持氏に代る関東公方候補として期待をかけたのが、持氏の叔父・篠川御所足利満直である。1399年、持氏の父・足利満兼は、関東公方管轄となって日の浅い陸奥・出羽両国を統治させるため弟の満直・満貞を陸奥に派遣した。二人はそこで、篠川御所・稲村御所と呼ばれたが、幕府は関東公方に野心のある満直に目をつけ、反持氏勢力の結集に利用しようとした。
 又、関東公方管国の守護は将軍と公方合意の上決定し、将軍によって補任されるのが原則だった。しかし、将軍義持は公方持氏の意向を無視し、上総守護職(宇都宮持綱)、甲斐守護職(武田信重)、常陸守護職(佐竹与義)などを強引に登用した。
 この時、上杉禅秀の残党狩に躍起になっていた公方・足利持氏は幕府支援の佐竹与義を誅殺したのが1422年だった。これに義持は激怒するも、持氏は京都扶持衆の小栗氏、真壁氏らを討伐すべく動いた。1423年義持は評定会議を招集。しかし、この会議は義持方針を追認しただけで、この一件は、義持が関東国境付近に幕府軍を展開したため、持氏が和睦を申し入れ、一触即発は回避された。その後持氏は義持に従順な態度を示すが、それは将軍・義量が早世し、その後継者指名を受ける期待を持っていたためであると云われる。

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2013年6月 4日 (火)

参院選公示、あと1ヶ月

 あと1ヶ月で参院選が公示となるが、ここにきて憲法96条改正問題では、与党間でも意見に食い違いあり、野党も相変わらず不一致。更に維新の会も橋本失言で支持者が離れつつあり、一方株価下落で、アベノミクスにも陰りが見えだしたという人も居る。果たして良識の府を選ぶ国民が良識を持っているだろうか。今日も雨の降らない梅雨に咲いている花。
Photo  ムラサキツユクサ(紫露草)。北~中米原産。今の園芸種は大紫露草と掛け合わせたもの。半日日陰位の所が良く、陽射しが強いと半日で萎んでしまう。雨にも弱くすぐ傷む。早朝には元気に咲いているが、露光が足りずフラッシュなしでの撮影困難等々で、写真の難しい花だ。日本には明治以降に渡来。
Photo_2  ヒメツルソバ(姫蔓蕎麦)。元々ロックガーデン用に明治期に入ったものが今では野生化して路傍でも散見される。石垣に這わせたりグランドカバーとしても使われる。タデ科特有の紋が葉に入っているが、これが無いのはツルソバという。春から秋まで咲く。
Photo_3  フユウガキ(富有柿)。富有柿は北部九州一体よく作られ、柿農家も多い。5月から咲いているのでそろそろ散る頃だが、雨や風に弱く、少し強めの風雨に遇おうと相当の花が散る。実になっても梅雨時期の雨で落ちるが、自然にうまく間引きされるのだという説がある。

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2013年6月 2日 (日)

変わりものの山野草

 山野草も梅雨時期に咲くのは少ないが、今頃咲いている山野草で、珍しくはなく一番目に付き易くポピュラーながら、実は変わりものというのを今日は3点採り上げる。
Photo  ヒメジョオン(姫女苑)。よく似たハルジオンと同属。この花は小さな花の集まり(頭状花序という)で、中の黄色部分管状花の集まり、周辺の花びらに見えるのは舌状花の集まりである。花色は白の外、清浄な空気中では薄紫(最近増えた)になる。1個体当り47000の種子を作り、種子寿命は35年という驚異的な繁殖力をもつ。
Photo_2  マツヨイグサ(待宵草)。南北米大陸原産で、この他の地域には産出しない。日本のも全て帰化植物逸出した物。平野から高山、瘦せ地、荒地、砂地、ガレキなど何処でも植生する。日本へは1850年前後観賞用として移入し、逸失・野生化した。黄色い花待宵草白い花月見草赤い花夕化粧と呼び区別する。
Photo_3  ナガミヒナゲシ(長実雛罌粟)。細長い果実からの名。ケシ科だがヒナゲシ同様、アヘン原料のアルカロイドは含まず、栽培可。日本への渡来は近年で、1961年東京で初めて確認された。以後温暖な都市周辺各地に広がった。アルカリ性土壌を好むので、コンクリート舗装路肩にも繁殖。一つのケシ坊主から1000~2000の種子をばら撒き、爆発的な繁殖力を示す。

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2013年6月 1日 (土)

争乱の戦国史16(室町Ⅱ06): 北方交易

 朝鮮への朝貢船の目当ては、朝鮮国王からの下賜品。中でも将軍や大名にとっての垂涎の的は、13世紀半ばに製作された高麗版大蔵経であったと言われる。14世紀末から16世紀にかけ50部以上の大蔵経が日本に渡ったことが確認されている。
 朝鮮は当初比較的容易に日本の求めに応じたようだが、15世紀後半以降は下賜費用の膨張が問題yとなり、又印本も少なくなって、出し渋るようになった。この様なj状況下、大名や琉球王の名をかたり、大蔵経を入手しようとする偽使が横行し始めた。1461年以降の入貢の内4度までが偽使が大蔵経を入手したという。

 1482年夷千島王・遐叉(カシャ)の使者と称して入貢した宮内卿もこうした偽使だった。宮内卿は同年4月9日、日本国王足利義政の使者栄弘首座(エイコウシュゾ)と共に漢城(現ソウル)入りしたが、栄弘が希望通り大蔵経一部が下賜されたのに対し、宮内卿には下賜されなかった。宮内卿を偽使に仕立て上げたのは蝦夷地と本州の交易に関与していた、津軽安東氏だと見られる。(は安東氏が交易拠点とした往時の十三湊復元図
F_2  アイヌは元朝勢力が後退した14世紀後半から末にかけ、サハリンに進出し15世紀前半にはとの間に朝貢関係を成立させていた。明からの下賜品には、蝦夷錦と呼ばれる高価な絹織物も含まれ、北方交易は活況を呈した。 
 しかし、1432年(永享4)には津軽十三湊安東氏が南部氏に追われて蝦夷地に渡って以来、倭人の蝦夷地進出が顕著になり、又ほぼ同じ頃、明の勢力がサハリン・アムール方面から後退して、北方交易は振るわなくなったこともあって、アイヌは次第に倭人に対する経済依存を強めていった
 後述する「コシャマインの戦い」はこうした状況の中での出来事であったのである。因みに、夷千島王遐叉の使者が朝鮮国王に献上した品目は馬角・錦・練貫(ネリヌキ)・綾紺布・昆布であり、蝦夷地でないと入手できないほどのものはなく、安東氏がどこまで本気で大蔵経を望んだか不明だと言われ、又この偽使は案外対馬あたりで仕立てられた可能性もあるという。

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