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2013年6月25日 (火)

争乱の戦国史22 (室町Ⅱ12): 大名意見制と将軍権力低下

 6代義教の頃、将軍は武家の頭領だが、上意下達により大概の事案を迅速に決定処理した訳でなく、大名取次制と大名意見制という決定処理システムが存在した。
 先ず大名取次制。当時将軍と地方の守護・国人とを取り次ぐ役割の幕閣を取次とか申次と呼び、相手と交流があるか、幕閣の同族などの有力守護が務めた。
 これら取次の機能は、基本的には将軍と地方守護・国人との交渉・意思伝達であるが、御内書や管領奉書の副状添付、補足説明の使者派遣、将軍への返事の仕方、贈物の指導など、言わば根回し役でもあった。但し、義教後期には有力守護の手を離れ、近習赤松満政のもとへ収斂したという。
 次に大名意見制。取次はロビイストで政策決定者ではない。政策方針の決定はもとより評定衆(幕閣である管領や有力守護大名)による評定会議によったが、徐々に会議は減り、在宅諮が一般化し、大名意見制とも言うべき形に変わった。即ち評定衆や奉行人の内談や大名同士の意見交換もなく、代りに夫々より意見状が提出された。然るに、幕府の意思決定は幕閣の全会一致が原則のため、大名意見状が将軍に対する強い拘束力を持津結果となった。
 もし反対意見があれば、そん理由を詳しく聞き、将軍が反対者を説得して、原案を修正して、賛成へ誘導した。。これは横の連絡を絶ち個々に攻落してゆくので、結果的に
将軍専制化につながり、前代将軍よりはるかに徹底した専制君主になった。
F22
 大名意見制に参加できたのは、三管領と京極家を除く四職家の三家、それに三管領家の庶子から二名の8名の構成だった。そして内々に意見を調整する役目を三宝院満済(義満の猶子で僧侶)が受け持った。(三宝院満済画像)
 このような政策決定では、管領に就任する意義は薄れ、公式行事に出費も多く、管領就任を忌避する動きが出てきた。結果足利に次ぐ高い家格の斯波家が没落した。その原因は義満が公家社会にデビューし、公武権力の一体化が実現し、将軍はもはや武士の味方でなく、守護勢力の支持を失い、守護大名を強大にしてゆくのである。

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