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2013年6月21日 (金)

争乱の戦国史21 (室町Ⅱ11): 正長の土一揆

 1428年正月(応永35)、将軍継嗣直後から南朝後胤・小倉宮の出奔、関東公方・足利持氏の敵対、称光天皇の崩御と相次ぐ難題に義教は直面した。その時、正長(ショウチョウ)の徳政一揆が勃発するのである。後に頻発する徳政一揆の始まりである。
 未だ、将軍宣下を受けてない義政は窮地に立ち、自筆書状で西国大名・大内盛見の上洛を促し、翌年大内勢が上洛。間もなく伊勢国司・北畠満雅の敗死で当面の危機は去ったので、翌1429年義教は待望の将軍宣下を受け、実名を義宜から、義教に改めた。
F21 徳政(=税免除)を求めたこの土一揆は前年から天候不順で不作の上、得体のしれないい疫病が蔓延し、社会不安が高まっていた時、近江の坂本、大津の馬借らが、徳政を求めて蜂起したものだ。一揆衆は方々の借金先を襲っては証文を奪い、焼き捨てた。近江、山城辺りは、どこの寺院でも年貢の取立てばかりか、年利6~7割2分の高利貸しをやっており、一揆衆にとっては格好の攻撃目標だった。正長の徳政令
 大乗院尋尊の「一天下の土民蜂起す」なる記録には「徳政と号し、酒屋土倉寺院を破却せしめ、穀物等ほしいままにこれを取り、借金等悉くこれを破る。管領これを成敗す。日本開闢以来、土民蜂起これ初め成り」とある。

 その後、近江から山科、醍醐に移った一揆は、京都市中で荒れ狂い9月下旬から11月にかけて長期に亘り蜂起を繰り返した。その内、守護大名の手の者が便乗して略奪に出る者が現れた。ここに至り、幕府は「一揆禁止令」布告する。
 それでも収まらず、一揆は奈良にも飛び火し、僧体・俗体の「悪党」どもが西大寺近辺で気勢を上げ、奈良海道往還の馬借達も木津近辺から侵入し数千人規模の集会をなし、大寺院中心の荘園領主の心臓部を脅かした。幕府の侍所、寺院お抱えの国人衆が一揆に対決し、鎮圧したという。

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