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2013年6月14日 (金)

争乱の戦国史19 (室町Ⅱ09): 赤松満祐の下国事件

  4代将軍義持最後になって大きな失敗をする。1427年9月(応永34)、赤松義則が没し嫡子・満祐が家督を継いだ。その仏事中陰の最中、義持は赤松家の本領・播磨を暫く将軍家領国として召上げ、義持の近習だった赤松持貞に預けたい旨、満祐に通告した。満祐は当然のことながら激しく抗議したが、義持の決心は固かった。
 観念した満祐は、同年10月26日家中の者たちと簡単な宴会の後、屋敷に火をかけ、播磨めざして下国した。
 室町幕府では、九州と関東公方管轄下の東国諸国、及び越後・信濃・駿河の国境諸国を除いて、守護は在京が原則である上、暇を乞わずに下国することは反逆を意味した。これを知った義持は満祐の短慮を責め、満祐の残りの分国備前・美作をそれぞれの一族の赤松美作守と伊豆守に与えると共に、山名時煕以下の諸大名に満祐討伐を命じた。これは義持の粗忽討伐かと批判された。この討伐命令は評定会議を召集せず、義持の一存で出されたものだった。これが満祐下国事件だ。
F_2 11月、赤松満祐が管領・畠山満家に書状で、義持へのとりなしを求めた。満家は義持に、三分国の内播磨一国を満祐に与え赦免してはどうかと提案したが、義持は返ってかたくなになり、満家の提案を一蹴した。
  ところが、事件の発端となった赤松持貞は女性関係をめぐる不行儀を訴えられた。これが、義持の逆鱗に触れ、訴えられた持貞は日ごろ親しかった三宝院満済(義教の政治顧問)に助けを求め、満済が持貞赦免を申し入れたが、応じなかった。そこで、満済は持貞を逃すべく、高野山とも連絡を取り匿う手筈まで整えたが、その直後、義持の使者が来て、持貞は切腹させられた。一方赤松満祐は赦免され、満家に付き添われ、義持との対面を果たした。
 有力守護と対立した近習は血祭りに上げられるのである。畠山氏は一門に対する惣領家の統率力が強く、満家はそのもてる力すべて駆使して満祐を救ったのである。確かに持貞は義持の寵臣ではあったが、左程の野心家でもなく、満家には満祐を救うためのスケープゴートに過ぎなかった。陰で動いた畠山満家の力も大きかったが、持貞への極刑を招いたのは、持貞処罰を神に誓った義持の極端な敬神のせいだったのである。

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