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2013年6月 9日 (日)

争乱の戦国史18 (室町Ⅱ08): 神人強訴の騒乱事件

 関東問題に一応けりがついた1424年6月(応永31)、幕府膝元の山城で、石清水八幡宮の神人(ジニン)(下級の神職)が社務・田中融清(ユウセイ)の解任等を求め、同社の薬師堂に引き籠る事件が起きた。
 要求不履行の場合、薬師堂に放火すると言うもので、諸大名も手を出せずにいたが、将軍・義持は彼らを京に呼び戻し、「薬師堂焼失すと言えども痛むべからず。唯神人責め殺すべし」と命じた。そこで大名たちは石清水にとって返し、石弓による激しい攻撃を加えたが、山上の神人たちと示し合せた彼らの妻たちの在家への放火により、諸大名の目の前で八幡市街が炎上した。その後も幕府軍は山上包囲を続けたが、7月に入り義持は遂に田中融清の解任を認めた。粘り強い神人の抵抗の前に幕府が敗北したのである。

 ところが、同年8月その八幡神人が京都で大量虐殺される事件が起こった。発端は八幡別当の若党による些細な打擲事件であったが、それを恨んだ神人たちは別当の解任を求めて大挙して義持の元に押し掛けたのである。
F 義持は八幡奉行・飯尾為行を通して訴えるように指示する一方、侍所京極高数と太田康雄の軍勢を飯尾邸に差し向け、神人を捕縛しようとした。ところが神人たちも浄衣の下には甲冑を帯びており、大合戦となりその場で、神人たち30数名が討たれ50名が生け捕られ、或いは処刑され、殆どが落命するという大惨事となった。
 けれど八幡神人の強訴が頻発し、石清水の放生会も彼等によって毎年妨害されており、義持の敬神に付け込んでの神人たちへの共感は得られず、同情の声は上がらなかったという。この反感が、強訴という訴訟形式を葬り去って行ったのである。

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