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2013年6月 5日 (水)

争乱の戦国史17(室町Ⅱ07): 京都扶持衆と公方の対立

 禅秀の乱で公方・足利持氏を支援した幕府は、その後持氏への警戒心を強め、関東・東北地方の反持氏派国人たちを秘かに支援し、関東公方・持氏に対し着々と包囲網を構築しつつあった。この様に関東公方管国内でありながら、京都の幕府と通じ、関東公方を監視・牽制する役を担った国人たちを京都扶持衆と言ったが、中には禅秀の乱に関与し、持氏から圧迫を受けたものが多い。
 陸奥では伊達・白河・葦名・岩城、常陸では真壁・大掾、小栗、下野では宇都宮・那須、甲斐では武田などが代表的な京都扶持衆であった。又、常陸・佐竹、下総・結城など惣領家が親持氏派であった諸家でも対立する庶子家を幕府は支援し、扶持衆に加えた。
F  幕府はこの中で、扶持衆の盟主として、又持氏に代る関東公方候補として期待をかけたのが、持氏の叔父・篠川御所足利満直である。1399年、持氏の父・足利満兼は、関東公方管轄となって日の浅い陸奥・出羽両国を統治させるため弟の満直・満貞を陸奥に派遣した。二人はそこで、篠川御所・稲村御所と呼ばれたが、幕府は関東公方に野心のある満直に目をつけ、反持氏勢力の結集に利用しようとした。
 又、関東公方管国の守護は将軍と公方合意の上決定し、将軍によって補任されるのが原則だった。しかし、将軍義持は公方持氏の意向を無視し、上総守護職(宇都宮持綱)、甲斐守護職(武田信重)、常陸守護職(佐竹与義)などを強引に登用した。
 この時、上杉禅秀の残党狩に躍起になっていた公方・足利持氏は幕府支援の佐竹与義を誅殺したのが1422年だった。これに義持は激怒するも、持氏は京都扶持衆の小栗氏、真壁氏らを討伐すべく動いた。1423年義持は評定会議を招集。しかし、この会議は義持方針を追認しただけで、この一件は、義持が関東国境付近に幕府軍を展開したため、持氏が和睦を申し入れ、一触即発は回避された。その後持氏は義持に従順な態度を示すが、それは将軍・義量が早世し、その後継者指名を受ける期待を持っていたためであると云われる。

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