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2013年5月 3日 (金)

争乱の戦国史9 (室町Ⅰ03): 応永の乱

 明徳の乱後、1392年(明徳3)閏10月、南朝の後亀山天皇が帰洛し、北朝の後小松天皇に三種の神器を譲り、南北合一がなった。尤も、義満に講和する気はなく、その不誠実さに、後南朝と呼ばれた残党勢力はその後80年に亘る幕府撹乱を続ける
 明徳の乱後、大内義弘は山名氏に替わり和泉・紀伊両国の守護職を獲得し、南北合体にも重きを成し、大きく躍進した。弱体の九州探題・渋川満頼を助け、九州調略に活躍。ところが1393年(応永6)、義満の上洛命令を拒否し、謀反を決意する。
 謀反義満から少弐氏討伐の命を受け、菊池・千葉・大村各氏など含め大勢の敵と戦い討伐するも、後日義満が少弐・菊池らに義弘討伐を命じていたことが露見明徳の乱の功として受けた和泉・紀伊領国没収の噂少弐討伐で戦死した舎弟の遺児に恩賞が無い。④今回の上洛命令は義弘誅殺の噂がある事、等による。
 僧・絶海が翻意説得に派遣されたが、義弘は既に関東公方・足利満兼と内通していて、翻意拒否となり、ここに応永の乱が勃発した

 西の大内東の関東公方の2つの巨大勢力を結びつけた今川了俊1370年(応安3)、義満政権の管領・細川頼之により九州探題に抜擢され、九州で勢力をふるう南朝勢力を駆逐し、南九州の地頭御家人らを島津支配から解放した。
 ところが、了俊は1395年(応永2)突然九州探題を解任され、京都に召喚された。一つは義満が了俊の勢力拡大を危惧したと云われるが、他に探題の地位を伺う大内義弘、又は一族を探題にしたい管領・斯波義将(ヨシユキ)等の策謀説もある。しかし、突如義満から再度の九州下向をを命じられ、この措置を事実上の流罪と悟って、了俊は俄に隠居を決め遠江に下国した。
Photo_2   1399年(応永6)、大内義弘の挙兵(応永の乱)に呼応して、関東公方・足利満兼も上野国足利荘まで進駐したが、義弘敗死の報を聞いて翌年鎌倉に引き上げた。一方今川了俊は、相模藤沢に潜伏していたが、義満からの上洛すれば助命するとの誘いに応じ、政治生命を捨てた。(:大内氏、今川氏の領国没収
 かくして、義弘は籠城する境において1399年(応永6)12月、管領畠山基国の長子・満家に討ち取られた。和睦の可能性を残した籠城も裏目に出た。尚、この乱も、明徳の乱同様、斯波与党への粛清としての性格があり、畠山氏は足利将軍家の直轄的性格を持ち、斯波・細川両氏による管領独占に楔を打込み三管領家が成立した。

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