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2013年5月24日 (金)

争乱の戦国史14 (室町Ⅱ04): 帰属曖昧な対馬海域の民

 15世紀半ば頃の九州北部西岸から朝鮮半島南部・中国沿岸部に跨る地域(村井氏:環シナ海地域と呼ぶ)には国家的帰属の曖昧な人々が住んでいた。日本人或いは朝鮮人又は中国人などで、和風の名前だが朝鮮人であったり、倭寇にさらわれて対馬にきた中国人であったりした例が多い。
F  当時の朝鮮資料にある「倭人」は主に対馬人を指しており、実態は日本・朝鮮・中国人が入り混じり、その混血も居る状態だった。また彼らが話した「倭語」は日本本土の言葉とは異なるこの地域特有の言語で、この地域の共通語であったという。(倭寇の活動域

 このような曖昧な海洋民の存在と言う意味では、当時の西国の大名や国人達も例外でなかった。周防(山口)の大内氏は自家の出自を百済聖明王の太子琳聖(リンセイ)に求めており、京都周辺では「大内氏は本来日本人に非ず」と言うのが周知の事だったという。
 又、後年、盛見(モリミ)の子・大内教弘は、対馬に逃げ込んだ宿敵・少弐教頼を討つために、対馬は元朝鮮の地であるといい、朝鮮国王に援軍を求め、「少弐討伐後は帰国の牧場の島となされ」と申出ている。領土的関心を煽って援軍を引出す魂胆だった様だ。
 彼らに、元々国境と言う観念が希薄だった事も確かである。応永の外寇で、宗氏が対馬のの朝鮮属州化を拒絶した時も、対馬は宗氏の相伝の地だから、少弐氏が許すはずがないという説明だが、朝鮮の属州となることは、宗氏には精々、少弐氏の知行に抵触するという程度の所領問題にすぎず、日朝間の国際問題という意識は全くなかった

 北九州の国人・商人の間では、日本に居住しながら朝鮮の官職を与えられた人を「受職人」と言ったが、この政策は北方の女真人に対しても採られた朝鮮の基本的な異民族懐柔政策の一つだった。受職人には入貢が許されて、交易が許される特典があった。元々日本人には複数の主人を許されるようなルーズさがありそれが国境を越えて展開していた訳で、国もこれを問題視した形跡は無い。 

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