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2013年5月20日 (月)

争乱の戦国史13 (室町Ⅱ03): 応永の外寇

 鎌倉時代中頃から、高句麗の沿岸各地に侵入を繰り返した倭寇は、南北朝の頃、その動きが最も活発となり、1360~80年代・南北朝の頃には高句麗の首都・開城付近付近まで攻撃を加え、もっとも激しい場合には、兵船4百、兵数3千と言われる大規模な集団を成したという。
 そして、李氏朝鮮時代になって、その勢いは幾分衰えたが、朝鮮側ではこれを、「三島倭寇」と呼んで恐れた。即ち、壱岐・対馬・松浦地方を拠点とした海賊集団だった
 しかし、李朝・太祖は即位の年、日本に使者を送り倭寇の禁圧を求め、倭寇の朝鮮への帰服を勧めたり、西日本・諸豪族との積極的な交流を求め、一応その効果を上げた。  だが、倭寇の活動は、衰えたわけではなく、1419年5月、日本の有力海賊集団が朝鮮を荒し、ついで遼東半島の望海堝を襲う事件もあった。これは明の軍隊に敗れ、倭寇は壊滅的な打撃を受けた。
Photo_3  その上、このすきを突いて1419年6月20日(応永26)、兵船227艘、兵員1万7千余の朝鮮軍が対馬を急襲した。対馬の船団が帰港したと思った島民たちは驚いた。上陸した朝鮮軍は民家約2千戸・船舶約百艘を焼き払い、百名以上の島民を殺害したという。朝鮮兵も百数十名を失い、7月3日には撤兵した。これを応永の外寇と呼んでいる。(図は朝鮮の「海東諸国記」掲載の対馬の図1471年編)。
 事件後、朝鮮は対馬島主・宗貞盛に対して、島民上げての投降か、日本本土への引き揚げを迫ったが、宗氏降伏の使者を立て、翌1420年、対馬を朝鮮州郡とする事を申し出た。これにより朝鮮も慶尚道の一州と決めたが、1421年4月、宗氏は一転して朝鮮属州化を拒否した。先の属州化は使者の一存だったとか、幼少の島主に代り実権を持つ早田氏の陰謀だったとも言われている。
 朝鮮政府は対馬再征を議したが兵の士気は上がらず、宗氏服属の証である「印信」を授けて事件の幕引きをした。
 朝鮮軍が対馬攻撃した目的は、対馬を本拠地とする倭寇の殲滅であった。朝鮮に協力的な宗貞茂が島主の間は、倭寇の活動も鎮静化していたが、死去以来再び活発になっていた。更に対馬の諸民族の雑居状態を解消し、この海域を国家支配下に置こうとの沿海政策があったという。

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